(3)


サトルが部屋を飛び出した時、外はもう、真夜中に近かっ
た。
当てもなく街中歩き回り、疲れ果て、明け方近くになって
部屋に戻って来た時、そこにはもう、老人の姿はなかった。
サトルはそのまま、コートも脱がずにベッドに倒れ込んだ。

ベッドの上で彼は、仰向けに天井を見つめ、老人とのやり
取りを思い出しながら、様々な事に考えを巡らせていたが、
どれひとつ、はっきりとした答えの出ないまま、浮かんで
は消え、浮かんでは消えた。

(喪失と奪回‥‥)
彼は、心の中で呟いた。
(奪回?今さら何を、取り戻せるというんだ?)

とうとう一睡も出来ぬまま、いつの間にか昼になっていた。

サトルは、ゆっくりとベッドから起き上がり、外へ出掛け
て行った。
そして、近くの店で食事を済ませると、また街をうろつき
始めた。

この時彼の胸には、何か重大な事が、間近に迫って来てい
る様な予感がうごめき、窒息しそうなぐらいの息苦しさを
感じていた。
彼は堪らずベンチに座り込み、頭を抱えてうずくまった。

(俺はもう、駄目なのかもしれない‥‥)
ふとそんな言葉が、彼の頭をよぎった。

この二年間、彼はこの苦しみに、ずっと耐えて来た。
始めのうちの苦しみは、悲しみ、怒り、恐怖といった様々
な強烈な感情が、目まぐるしく入り交じった、とても混乱
したものだったのだが、時と共にそれは少しずつ弱く、小
さくなっていった。
だが、それと入れ替わる様にして、今度は全く別の、何か
もっと根深い、じわじわと地の底から湧き上がって来る様
な、不気味な闇が、彼の心を蝕んでいき、今やその闇は、
彼の心を覆い尽くさんばかりに広がっていた。

それは最早、末期症状といってもよかった。
彼にはもう、それに太刀打ち出来るだけの力は、残ってい
ない様に思われるのだった。

ベンチに座ったまま、彼は時折顔を上げ、通り行く人たち
を眺めたり、またうつ向いて、頭を抱えたりを繰り返して、
何時間も時を過ごした。
ちらちらと、雪がちらつき始め、やがてそれは大粒の雪に
なって、街を白く染め始めた。

辺りが暗くなり始めた頃、サトルはようやく立ち上がり、
ふらふらと歩き出した。
歩きながら、何かを考えようとしたが、何も考える事が出
来なかった。

何処をどう歩いているのか、自分でもさっぱり解らぬまま、
サトルはふと、無意識に足を止めた。
(何で俺は、立ち止まったんだろう?)
彼は我に返って、辺りを見回した。
体は雪で、真っ白になっていた。

目の前には、古い小さな雑居ビルがあった。
ミユのいる店「A」が、地下にあるビルだった。
いつに間にか、彼はここへ来てしまっていたのだ。

しばらくの間、ぼんやりとその場に突っ立っていたサトル
は、やがてふらふらと吸い込まれる様に、ビルの中へ入っ
て行った。





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