(2)


<これは、ただの戯言である。哀れな敗北者の遠吠えであ
る。
だが、私はどうしてもこの戯言を、声に出さずにはいられ
ない。
勝者たるこの世界への、最後の一矢、追い詰められたネズ
ミの、最後の一噛みとしてでも。
さもなければ本当に、私が生まれてきた意味が、微塵もな
くなってしまうから。

私は、人生に絶望している。
しかし私は、ここに自分の生い立ちや、現在置かれている
境遇について、あれこれ書き記そうとは思っていない。
私がどれ程、不幸な人生を送って来たかを語ったところで、
何の意味もないし、そんな事など諸君は、これっぽっちも
興味を持っていないだろうから。

だから私はここで、人生への不平不満を、切々と吐露する
つもりは、毛頭ないのである。
多かれ少なかれ、人は誰でも皆、不幸なものだ。

諸君、不幸な人間の中にも、格差は存在するのだ。

今ここに、助かる確率が百分の一以下という、難病に冒さ
れた可哀想な子供が、奇跡的にその病気を克服したという
美談があったとしよう。
当然世間の人たちは、涙をもってこの話を歓迎するだろう。

(世間というものは、とかく奇跡だの、感動秘話だのとい
った類いを好むものだ。
それは自分が、その類いとは違う、いわば安全圏の中にい
る事を、十分承知しているからだ。)

では、同じ難病を患いながら、奇跡の恩恵にあずかる事無
く、死んでいった子供の親なら、この感動秘話をどう受け
取るだろうか?

いや、例え奇跡にあずからずに死んでしまったとしても、
その間、心優しい両親から、友達から、溢れんばかりの愛
情を受けられたのなら、その子はある意味、まだ恵まれて
いる。
世の中には親の愛情も知らず、生まれてすぐに捨てられ死
んでいく子や、生まれる事さえ叶わなかった命が、星の数
ほど存在するのだ。

さて、私はここから何か、特別な結論を導き出そうという
魂胆を持っている訳ではないので、この辺で話を元に戻す
事にしよう。
とにかく世の中には、様々な不幸があり、視点によってそ
の様相も変わる。
だから私が、自分の不幸について事細かくひけらかしても、
何の意味もないのである。

私は諸君の同情など、これっぽっちも望んではいない。
私はただ、人生の最後の瞬間が迫った今、何を考えている
のかを、書き遺しておきたいだけなのだ。





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