(4)


殺人というものは大抵、何の前触れもなく、突然被害者を
襲うものだ。
その際、恐怖、苦痛、絶望感といった感覚も、ごく短い時
間にどっと押し寄せ、命の消滅と共に消える。
(ここでは、人の死後、その魂は滅びるのか否か、という
問題には、敢えて触れない事にする。
そんな事は、まだ生きている人間に解る筈もないし、今、
私が話している内容とは、直接関係がないからだ。)

では、その「罰」としての死刑はどうだろう?

加害者は、法の裁きを受けるために拘束され、裁判の中で
長い時間をかけて、その罪の重さを吟味され、罰の重さが
決められていく。
この間の加害者の、精神的、肉体的な苦痛は、どれ程のも
のだろう?

やがて、死刑の宣告を受けた後も、すぐにそれが執行され
る訳ではない。
控訴や上告で、一から審理をやり直す事もあるし、刑が確
定しても、執行まで、その後何か月も、何年も待たされる
場合もある。

何の希望もなく、何年も自分の死を待ち続けねばならない
人間の精神状態は、果たしてどの様なものだろうか?

こうして考えてみると、この「罪」と「罰」の重さは、到
底釣り合っているとは言えないのではないか?

またしても、諸君の声が聞こえて来る様だ。
(ふざけた事を言うんじゃない!被害者の家族や、友人や、
恋人の身にもなってみろ!
その苦しみを考えたら、たとえ重さが釣り合わなくても、
死刑になって当然だ!
いや、それでも足りないぐらいだ!)

いやいや、それはただの感情論だ。
被害者の家族や、世間の人たちが抱く「怒りや憎しみ」を、
全面的に肯定してしまうのはおかしい。
もしもそれを認めるのであれば、加害者の側の「どうして
も抑えきれない、殺さずにはいられない心の苦痛」という
感情も認めてあげなければ、これまた釣り合いが取れなく
なってしまう。

こうして考えていくと、死刑というのは甚だバランスを欠
いた、野蛮な「罰」の様に思えて来る。

しかしこの際、私は百歩譲って、「苦痛の重さの不公平」
という点には、敢えて目をつぶるとしよう。
それでもやはり、最初の二つの疑問は、依然として残るの
だ。

何故、人が人を殺してはいけないのか?
何故、社会は人を殺してもいいのか?

私は、この二つの疑問のうち、とりわけ一つの疑問につい
て、更に注意深く考えてみた。





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