「傍観」



ある休日の出来事である。

駅からの帰り道、僕は途中にある公園の中を通り抜けようと歩いて
いた。
突然、「危ない!」という叫び声がしたので、驚いてその方向を見
ると、何かが空中を舞って、僕の目の前にドスン、と落ちた。
それは、十歳ぐらいの少女だった。
少女は、体をえび反らせて顔から地面に落ち、勢い余って半回転し
て、座り込む体勢で止まった。
一瞬の間が空いた後、少女は火の出るような勢いで泣き出した。
少し遅れて、少女の父親らしき男性が、慌てて駆け寄ってきた。
さっきの叫び声は、この父親のものだったのだろう。

あまりに突然のことで、僕は何も出来ずに、ただぽかんとしていた。

おびただしい量の血が少女の鼻からあふれ出し、少女の服と地面に
滴り落ちた。
どうやら鼻の骨が折れたらしく、鼻はみるみるうちに腫れあがって
いった。

行きがかり上、僕はその場を知らぬ振りをして通り過ぎることが出
来なくなってしまった。

そのうちに、公園にいた子連れの母親や父親たちが、少女と父親の
周りに集まってきた。
「一体どうしたんですか?」
ひとりの女性が、少女の父親に話しかけた。
「ブランコを勢いよく押していたら、やり過ぎてしまって‥‥」
どうやら少女は、父親の押すブランコの、あまりの揺れの大きさに
怖くなって、思わず手を放してしまったらしい。

集まった人たちは、少女を介抱する父親に、タオルや、水の入った
ペットボトルを渡したり、少女を気遣って話しかけたりした。
ひとりの男性が、ケータイで救急車を呼んでいた。

計らずも傍観者になってしまった僕は、ただ阿呆のようにその場に
佇んでいた。
何をする訳でもないのに、まるで両足に根が生えてしまったように、
そこから動けなかった。

ひとしきり泣いた後、少女は不意に泣き止んだ。
出血も少し治まってきた。
周囲からの視線と問いかけのなか、少女はじっとそこにうずくまっ
て、ひとり耐えていた。
周りの誰も、父親さえも、この苦痛から助けてはくれないと悟った
のか、ただ自分ひとり、痛みや恐怖や、不安や悲しみと必死に戦っ
て、小さな肩を震わせていた。

その姿に、僕の胸は激しく痛んだ。
そして一種の、焦りのようなものが襲ってきた。
(この子のために、何かしなくては‥‥)

ふと僕は、カバンの中にタオルが入っていることを思い出し、その
白いタオルをカバンから取り出して、父親に差し出した。
「あの‥‥もしよかったら、これ使って下さい。」
「いえ、大丈夫です。」
父親の手には、既に何枚ものタオルが握られており、僕の申し出は、
どう見ても余計なお世話だった。
僕は急に恥ずかしくなって、タオルを持つ手を引っ込めた。
自分の無力感に叩きのめされる思いがした。

それから程なくして救急車が到着し、すぐさま父親が少女を抱きか
かえて、その中に乗り込んでいった。
ふたりを乗せた救急車が走り去るのを見届けて、その場にいた人た
ちは、一様に安心して、それぞれ元いた場所へ戻っていった。
しかし、僕は最後まで、その場を離れることが出来なかった。
僕の中の無力感は、依然として消えずにいた。

少女がうずくまっていた場所を見ると、そこには小さな赤黒い血溜
まりがいくつかできていた。
僕はそこに屈み込み、手に持っていた白いタオルで、その血溜まり
を拭いた。
そんなことをしても、何の意味もないことは解っていたが、それで
も何故かそうせずにはいられなかった。
入り混じった血と土で汚れたタオルを、僕は虚しい気分で、いつま
でも眺めていた。

またしても僕は、ただ眺めるばかりだった。






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