「表情」



僕がまだ小学校三、四年生の頃の話である。

同じクラスにT君という、身体に障害を持っている男の子がいた。
他の子より背が低く、痩せていて、少し背骨が歪んでいるらしく、
いつも猫背だった。
ちりちりの短い黒髪に、細く尖った鼻、のこぎりの様なギザギザの
歯が覗いている口元、片目がぎょろりと大きく、もう片方の小さく
閉じられた目からは、わずかに白目だけが覗いていた。

そんな不自由な体にもかかわらず、T君の性格はとても明るく、い
つもにこやかに舌足らずな高い声を響かせて笑っていた。
僕は彼とは、特別親しい仲ではなかったが、それでもそんな彼の容
貌など少しも気にかけず、時々、他のクラスメートに対するのとま
ったく同じ様に喋ったり遊んだりしていた。

他のクラスメートもほとんど皆、彼を特別な目で見る事もなく、ご
く普通の友達の一人として接していたのだが、ただ一人だけ、N君
という子だけは違っていた。

内気な性格であったN君は、仲のいい友達もなく、クラスではいつ
も一人ぽつんと皆から距離を置かれて、僕の目には孤独な存在に映
っていた。
そのせいもあってか、彼は時々、自分より体が小さく、力も弱いT
君を、陰でいじめている様だった。
障害を持ちながらも明るい性格で、クラスに溶け込んでいるT君に、
嫉妬を感じていたのかもしれない。

しかし、そんないじめを受けている事など、T君は決して他の子達
の前ではおくびにも出さず、相変わらずいつもにこやかに振舞って
いた。
僕も薄々、いじめの事は感づいていたのだが、この目で目撃した訳
ではなく、あくまで噂を聞くだけで、T君本人も何も言わなかった
ので、それほど深刻には考えず、他の皆同様に、そのまま知らぬ振
りをしていた。

そんなある日、その事件は起こった。

校舎の裏庭の片隅で、N君がT君の顔を地面に押し付けたり、足で
踏み付けたりしているところを、たまたま通りかかった数人のクラ
スメートが見つけた。

「おい、何してるんだ!」

彼らはN君を取り押さえ、教室まで引き連れていき、皆の目の前で
その事を告げ、公開裁判よろしく彼を糾弾し始めた。

「何てひどい事をするんだ!」
「許せない!」
「この人でなし!」
「ふざけやがって!」
「死ね!」

こういう事を群集心理というのだろうか、今まで数々聞かされて来
た、N君のT君に対するいじめの噂へのうっぷんが、ようやくはけ
口を見つけて、この時一気に爆発したかの様だった。
僕を含めた何人かが遠目に見守る中、クラスの大多数がN君を取り
囲み、詰め寄り、罵声を浴びせ、小突き、頭や体を叩き出した。
N君は恐怖のあまりがたがたと震え、大粒の涙を流して泣き出した。
それでも群集心理は収まらず、誰かが興奮して大声で言った。

「おい、T君を連れて来いよ。あいつが被害者なんだから、あいつ
に仕返しをさせてやろう!」
「そうだ! それがいい!」

この提案に皆大喜びで、教室の隅で目立たぬ様に小さくなっていた
T君を見つけ、N君の目の前まで連れて来た。

「ほらT君、今までいじめられたお返しに、こいつの顔を思い切り
殴ってやれよ。大丈夫、こいつは抵抗しないよ。俺たちがちゃんと
見てるから。」
「そうだ、そうだ、やっちゃえよ!」

皆の輪の中でN君と向き合わされたT君は、しばらく戸惑っておど
おどしていたが、周りからの半ば強制的な声に促されて、おもむろ
に慣れない手つきで、泣きじゃくるN君の頭をひとつ、軽く叩いた。

「なんだ、そんな弱っちい叩き方! もっと強く叩いてやれよ!」

そんな声に押されて、T君はもう一度、先ほどより少し強くN君を
叩いた。

「もっと強く!」

さらにもう一度、さらに強く叩いた。もはやT君の手は、自分の意
思では動いていない様だった。
その後も周りから嬉々としてはやし立てられ、T君は何度も何度も
叩いた。N君は無抵抗で、ただ泣くばかりだった。

僕は終始その様子を、そこに加わる事も止める事も出来ずに、空恐
ろしい気持ちで人だかりの外から見ていたのだが、時折、人影の隙
間から、N君を殴るT君の顔がちらちらと覗き見えた。

その表情を思い出すと、今でも背筋が寒くなる。

普段、あんなににこにこと穏やかだった彼の顔が、その時ばかりは
まるで別人の、喜びや悲しみといった人の感情をまったくなくして
しまった、冷たい虚ろな目、氷の様にこわばった表情に変わってい
た。
それはあたかも、機械仕掛けの人形の顔の様だった。

「いいか、もう二度といじめるなよ!」

ひとしきりT君に叩かせた後、誰かがそう言って人の輪が散ってい
き、騒ぎはようやく収まった。

この一件以降、もうN君がT君をいじめているという噂は一切耳に
しなくなった。N君も、さすがに懲りたのだろう。
T君もその後は、そんな事件などなかったかの如く、元のにこやか
なT君へと戻った。

あれから何十年もが過ぎ、もうT君や、N君や、他のクラスメート
と会う事もなくなった今、僕は時々、あの事件は夢だったんじゃな
かろうかと思ったりもする。
だが、それでも僕にはどうしても、忘れる事が出来ない。

あの時のT君の、機械仕掛けの人形の様な表情を。

                          (2014.1)






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