「祈り」


(1)

夜。
帰宅ラッシュの満員電車の中に、疲れた顔で乗客たちに押
され揉まれて立っている一人の男がいる。一日の仕事を終
えて、家に帰るところである。

男は古い食品工場で働いていた。週五日、朝早くから夜遅
くまで、電車で片道小一時間ほどかけて通勤していた。
午前は四十度近い室温の加熱処理のラインで流れ作業を、
午後はマイナス二十度の冷凍倉庫内で重い荷物の仕分け整
理をするのが彼の仕事だった。
彼は決して優秀な作業員ではなかった。上司からはミスが
多いと怒られ、同僚から仕事が遅いと煙たがられていた。
給料は安く、生活は苦しいというほどでもなかったが、か
といってそれほどの余裕もなかった。
私生活においての彼には、これといった趣味はなかった。
もっとも、残業や休日出勤がごく当たり前にあったので、
そもそも趣味を持つ時間もなかったのだ。

昼、社員食堂で食事をとりながら据え置きのテレビを見て
いると、事故や事件や外国で起きている紛争などの、暗い
ニュースや悲しいニュースばかりが映し出される。

「世界はどうして、こんなにも悲しいのだろう。」

仕事が終わると、男は最寄りの駅まで町なかを歩いていく。
ところどころ途中の道端に、たばこの吸い殻や吐き捨てた
ガムや、空き缶やペットボトルや、紙くずやその他様々な
ゴミが無造作に捨てられているのが目に入る。店のシャッ
ターや壁には落書きがされ、ガードレールはへこみ、金網
のフェンスは穴だらけになっている。町は人の手によって、
無慈悲に汚され傷つけられている。

「世界はどうして、こんなにも悲しいのだろう。」

駅は昇降客で溢れ返っていた。手元のスマホに気を取られ
て、行く手に注意を払わず歩く人。通路の真ん中に立ち止
まって話し込む人。すれ違いざま、肩と肩がぶつかった相
手を振り返り、睨んで舌打ちをする人。それらをまるで空
気の様に、平然と無視して通り過ぎる人。聞き取りづらく
響き渡る構内アナウンスの音。笑い声。怒鳴り声。子ども
の泣き声。

「世界はどうして、こんなにも悲しいのだろう。」

男は雑踏の前で足を止めた。排水口に流れ込む汚水の様に、
人混みが改札口へ吸い込まれていく。
諦めた様に小さくひとつ溜め息をついて、男はふらふらと
その人混みの中に紛れていった。


(2)

汗と香水と整髪料と酒臭い息のにおいが充満した満員電車
を降りて、男は人も疎らな寂しい夜道を歩いていた。足取
りは重かった。
歩きながら男は、今日一日にあった辛い出来事や、悲しい
事故や事件のニュースを、ひとつひとつ思い出した。それ
が彼のこの時間の日課になっていた。

「世界はどうして、こんなにも悲しいのだろう。」

そうしてひとしきり思いを巡らせた後、いつも最後に自分
にこう言い聞かせるのだった。

「僕にできるのはただ、祈ることだけだ。」

一日分の力を使い果たして、ようやく彼は自宅のある古い
アパートにたどり着いた。よろよろと倒れそうになりなが
ら錆びだらけの鉄階段を上って、薄暗い二階の狭い廊下を
少し歩いていったところにある、自分の部屋の鍵を開けて
ゆっくりドアを開いた。
味噌汁のにおいとともに、包丁で野菜を刻む音が聞こえる。
夕飯の支度をする妻の背中が見える。
「お帰りなさい。」
妻が振り返って言った。玄関を入るとすぐ目の前が台所に
なっていた。
「ただいま。」
男はそう返事をして、家に上がるとすぐに風呂に入った。
その後、部屋着に着替えて奥の居間に入ると、テーブルの
上に夕飯の用意をすっかり済ませた妻が、椅子に座って待
っていた。台所の他にはこの狭い居間と寝室があるきりの、
小さなアパートだった。
二人は夕飯を食べながら、お互いの今日一日の出来事を語
り合った。
夕飯を食べ終わると、男は先に一人で寝室に行ってベッド
に横になった。しばらくすると、後片付けを済ませた妻が
やって来て、彼の傍らに寝た。程なくして、妻が静かに寝
息を立て始めた。男は仰向けに寝たまま横を向いて、妻の
寝顔を眺めた。

彼が生き返る瞬間だった。

彼は今、この瞬間のために今日一日を生き抜いてきたのだ。
この世界の中で、これほど尊く、これほど美しく、これほ
ど愛おしいものを他に知らなかった。幸福とは何か。彼に
とって今、この瞬間が正にそれだった。

「神様、今日一日の妻と私の無事を感謝します。」

顔を天井に向き直して、彼は静かに目を閉じた。明日また
一日を生き抜くための力が、体の中に湧き上がって来るの
を感じた。

「世界がどんなに悲しくても、僕には生きる理由がある。
守るものがある。だから僕は生きる。悲しみと幸福が混在
するこの世界の中で、明日も僕は生きていこう。」

男はゆっくりと眠りに落ちていった。
今、部屋の中の空気は、殺伐とした外の世界が嘘のように
しんと静まり返って、二人を優しく包んでいた。






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