「音」



彼が生まれた街には空軍の基地があって、そこでは絶えずジェット
機が飛び交い、街には年中その爆音が、断続的に轟き渡っていた。

十歳の頃のある日、彼は本屋の店先で、マンガの雑誌を立ち読みし
ていた。
彼はその本が欲しかったが、買う金を持っていなかった。
諦めて帰ろうかと迷っていた矢先、上空低くジェット機が飛んでき
て、その爆音が静寂を破り、彼の耳を傷めつけ、胸を激しくかき乱
した。

そしてその音は、彼に(やれ!)と言った。
その命令に従って、彼は本を盗んで逃げて行った。

彼が高校生の頃のある日、些細な事が原因で友人と口論になった。
一旦口論は収まりかけたが、その時彼らの上空にジェット機の爆音
が鳴り響いた。

その音は彼に(やれ!)と言った。
すると彼は再び逆上して、友人に飛びかかって殴りつけ、大怪我を
負わせた。

この様にして彼の運命の歯車は、その音によって少しずつ、少しず
つ狂わされていった。

そしていつしか彼の耳には、車や、電車や、スピーカーの音や、人
の大きな怒鳴り声や笑い声など、街の喧騒の中から聞こえて来るあ
りとあらゆる騒音が、あのジェット機の爆音と全く同じ音として聞
こえる様になり、その後も非行を重ねて、粗暴な大人になっていっ
た。

仕事はいつも長続きせず、転々と職を変えた。
これではいけない、もっと真面目に働こうと努力しても、その度に
あの爆音が聞こえて来て、彼に(やれ!)と命じ、職場でトラブル
を起こしては、クビになってしまうのだった。

そうこうするうちに、いつしか彼は、働く意欲を完全に失くしてし
まい、自暴自棄になって酒に溺れ、住む家も失い、とうとう路上生
活者になってしまった。

彼は人生を呪い、世間を憎んだ。その思いは日に日に膨れ上がって
いった。

ある日彼は、ゴミ溜めの様な寝床に横たわりながら、まんじりとも
せず、頭の中で恐ろしい空想を巡らせていた。
今まで何度もそれを実行に移そうと考えたが、その度に心に別の力
が働いて、それを思い止まらせていた。
この日も彼は心の中で、その葛藤に悩まされていたが、その時また
してもあの爆音が聞こえて来た。

音は彼に(やれ!)と言った。

彼はナイフを片手に白昼の往来へ飛び出し、辺り構わず手当たり次
第に、行き交う人たちに襲いかかった。
往来は一瞬にしてパニックになった。
駆けつけた警官が彼を取り押さえた時にはもう、多くの命が犠牲に
なっていた。

捕えられた彼は法の裁きに掛けられ、死刑を宣告された。
それから彼は、街から遠く離れた辺境の地に移送され、数年後に死
刑が執行された。

皮肉にもこの最後の数年間、あの忌まわしい音から解放された彼は、
生まれて初めて心の平静を得て、束の間の穏やかな日々を過ごした。

そして何の心残りもなく、真っ白な気持ちで死刑台へと上がって行
った。

                          (2013.7)






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