「てんとう虫」



別にどうという事もない、ごくつまらない話である。


友だちもいない、恋人もいない、孤独の季節だった。
来る日も来る日も何もない、何もうまくいかない時間をどうにかや
り過ごして、空しい人生をただつなぎ合わせていた。

そんなある日、僕はいつもの様にせまい部屋に寝そべって、本を読
んでいた。
ふと横を向くと、すぐ目の前の畳の上を、一匹のてんとう虫が、の
そのそと這っているのが見えた。

(こいつ、つぶしてやろうか?)と一瞬考えたが、命の危険が迫っ
ているのも知らず、相変わらずのそのそやっている様子を見ている
うちに、僕は何となく気まぐれを起こして、ひょいとその体をつま
み上げると、部屋の窓を開けて、外の草むらに向かって放り投げた。
てんとう虫は放物線を描いて、草むらの中へ消えて行った。

この時はただ、これだけの事だった。特にどうという訳でもない。

数日後、そんな事があったのもすっかり忘れて部屋に寝転がってい
ると、またしてもてんとう虫が、畳の上を這っているのが目に入っ
た。
それが何処から入って来たのかも、前と同じ虫なのかも判らなかっ
たが、僕は何となく奇妙な気分で、再び窓の外へ放してやった。

それからというもの、てんとう虫は数日おきに、必ず部屋に舞い戻
って来る様になり、その度に僕は窓の外へ放してやった。

そんな事を繰り返すうち、いつしか僕は、彼の訪問を心待ちにする
様になっていった。
それが僕の、何もない日々の生活に生まれた、たったひとつの楽し
みだった。

このささやかな幸福の日々がしばらく続いたが、ある時を境に、て
んとう虫はぱったりと姿を見せなくなった。
一週間待っても、二週間待っても、彼はやって来なかった。

するとそのうちに、僕の心の中に、まるで親しい友人に裏切られた
様な感情が芽生え、てんとう虫に対して、いわれのない怒りを抱く
様になった。

僕は、てんとう虫を待つのをやめた。
ささやかな幸福の日々は幕を閉じ、孤独の季節が戻って来た。

ある日、気晴らしのつもりで久し振りに、部屋の掃除をしていた時
の事だ。
床の上に散乱した本を片づけていると、畳の隙間に何かが挟まって
いるのを見つけた。
それは、つぶれたてんとう虫の死骸だった。

(いつからここに、いたんだろう?)
しばらくの間、僕は彼の亡骸をじっと見つめていた。

それから小指のつま先を立てて、畳の隙間から彼の体を引っ掻き出
した。するとその拍子に、片方の羽がちぎれ、いくつかの足がもげ
た。
僕はその体と羽と足を拾い上げ、かつてしていた様に窓を開け、外
の草むらに投げた。
外はもう暗く、とても静かだった。


皆さん、この話はただ、これだけだ。
てんとう虫が一匹、つぶれて死んだ、ただそれだけの事なのだ。

ただそれだけの事なのに‥‥

その夜、僕は布団の中で、どうしても涙が止まらず、声を押し殺し
て、めそめそといつまでも泣いていた。






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