「罪」



罪とは何だろう? 罪のない人間なんて、いるのだろうか?

僕がまだ、十八・九の頃の事である。当時僕は、ある小さな会社で
雑役の仕事をしていた。
その日、いつもの様に昼休みに一人で食事に出かけた。
食事が済んで会社に戻る途中、近くの公園の中の道を歩いていると、
先の方で、カラスが何かに飛びかかり、羽をばたつかせて暴れてい
た。よく見ると襲われていたのは、一匹の小さな子猫だった。

僕は大声を上げて駆け寄り、カラスを追い払って、子猫を抱き上げ
た。
その顔を見て、思わずぞっとした。
子猫の両目は潰されていて、固く閉じられたまぶたの隙間から、白
いどろどろとした液体が流れ出ていたのだ。

咄嗟に助け出したはいいが、この後僕はどうしたらいいのか、途方
に暮れてしまった。
医者に連れて行こうにも、何処にあるのか解らないし、周りには他
に、人影は見当たらない。
会社に連れて戻ろうにも、その職場は雑然として酷く慌ただしく、
とても猫など持ち込める様な雰囲気ではない。まだやりかけの仕事
も沢山残っている。

そんな事を考えている間にも僕の手の中では、目の見えない小さな
命が、弱々しく小刻みに震えていた。

怒られるかもしれないが、やはり会社まで連れて行こうと、僕は腹
を決めた。
(構うもんか。それで駄目ならクビにすればいいさ。こっちから辞
めてやる。)

その時である。
遠くの方から、四十代ぐらいの女性が一人、こちらへ歩いて来るの
が見えた。
女性は僕の手の中の子猫に気づくと、近づいて来て覗き込み、その
目を見て驚いて言った。
「まあ、どうしたの? この子の目。」

僕はその女性に事のいきさつを説明し、すがりつく様な気持ちで尋
ねた。
「何処かこの近くに、動物病院はないでしょうか?」

「さあ‥‥聞いた事ないわねえ。」
それだけ言うと、女性は口をつぐんだ。
僕もそれ以上、何と言っていいのか判らず、重い沈黙が続いた。
それから女性は、力になれない事を詫びながら、気まずそうにその
場を去って行った。

何か状況が変わるかもしれないと、ほのかな期待を抱いていた僕は、
がっかりしてしまった。
(どうして俺一人だけ、こんな目に会わなけりゃならないんだ?)
すると自分の心の中で、先程までの決意が、少しずつ揺らぎ始めて
いるのに気づいた。

(‥‥こんな事で、ようやくありついた仕事を失うなんて、あまり
にも馬鹿らしいじゃないか。)
一旦そう思い込んでしまうと、僕の心はせきを切った様に、どんど
んそちらの方へと流されていった。

(何もこいつをここから連れ出さなくても、茂みの中にでも隠して
おけば、またカラスに襲われる事もないだろう。幸い目の他には、
何処も傷はないみたいだし‥‥
そうだ。そして仕事が終わってから、もう一度ここへ戻って来て、
それから家まで連れて帰ればいいじゃないか。
どうせ目が見えないのだから、怖がって無闇に歩き回ったりはしな
いだろう。)

僕はその子猫を、おもむろに茂みの中に降ろした。思った通り子猫
は、怯えた様子で身じろぎもせずに、その場にじっとうずくまって
いた。
それを見て僕は、くるりと踵を返して、足早に茂みから離れて行っ
た。
その時、後ろから子猫のか細い鳴き声が、背中に突き刺さる様に聞
こえて来た。
僕は一瞬、凍りついて足を止めた。しかし、どうしても後ろを振り
返る勇気は起きなかった。
振り返ればきっと、子猫を置いて行けなくなると思ったからだ。
僕は再び歩き出し、そのまま公園を出て行った。

その後の会社での仕事は、まったく手につかず、僕の頭からは一瞬
たりとも、子猫の事が離れなかった。

夕方、ようやく仕事を終えて、再び公園へ行ってみると、茂みの中
に子猫の姿はなかった。
僕は日が暮れるまで、必死に探し回ったが、見つける事は出来なか
った。暗くなって辺りが見えなくなっても、鳴き声がしないかと聞
き耳を立てながら、そこらじゅうを歩き回った。
だが結局、子猫は見つからなかった。

僕は公園のベンチに座って、長い間、何をする気にもならずに、た
だじっと時をやり過ごした。
そしてすっかり夜も更けた頃になって、ようやく腰を上げ、公園を
後にした。

(何を沈み込んでいるんだ? こうなると始めから判っていたくせ
に。これが俺の望んだ結末だったんだ。)

家までの長い道すがら、ふと空を見上げると、まるで嘘の様に美し
い星空が広がっていた。

罪とは一体何だろう?
もしもこの世に、何の罪もない人間なんて一人もいないとしたら、
こんな僕を裁ける者などいないだろう。

だが、僕には忘れる事が出来ない。
あれから何十年経った今でも。
この手の中で震えていた、あの重みと温もりを。
この背中で聞いた、あのか細い鳴き声を。

僕はあれを見殺しにした。
文字通り、殺したのだ。






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