「腕」



かれこれ二十年も前の話である。

混み合った電車の中で、僕は吊革につかまって立っていた。確か夜
だったと思う。
僕のすぐ右隣には、二人の若者が立っていたのだが、その二人が不
意に言い争いを始めた。体がぶつかったとか、些細な事が原因だっ
たと思うが、その辺ははっきりとは憶えていない。
とにかく二人は言い争い、それは徐々に激しくなって、小突き合っ
たり、掴み合ったり、大声で怒鳴り合ったりと、事態はどんどん悪
くなっていった。
迷惑な奴らだと思いつつも、余計なことを言って喧嘩に巻き込まれ
てはかなわない、さわらぬ神にたたりなし、とばかりに僕は、知ら
ぬ顔で立っていた。他の乗客も皆、傍観者を決め込んでいる様子だ
った。

物言わぬ人ごみの中で、ただ二人のわめき声だけが響く、苦渋の時
間がしばらく続いた。

その時である。

喧嘩をする若者たちとは反対側、つまり僕の左隣から、突然一本の
腕がすっと伸びてきて、僕の目の前を横切り、若者の一人の肩を鷲
掴みにした。
驚いてその腕の主の方に目をやると、そこには白髪の、初老の男性
が立っていた。
僕越しに若者たちを制したその老人は、しわがれてはいるが太い、
力のこもった声で、たった一言こう言った。

「やめなさい!」

あまりに突然の事に、僕は呆気にとられてしまった。若者たちも僕
同様、言い争いも忘れて呆然としている。
すると今度は、その老人に追随する様に、他の乗客たちの中からも、
「そうだ、やめろ!」
「迷惑だ!」
などという声が、あちらこちらから上がって来た。
若者たちは、老人や乗客たちの声に押されて、ばつが悪くなったの
か、急に黙り込んでしまった。そして次の駅に着くと、二人揃って
そそくさと電車を降りていった。

こうして車内は何事も無かったかの様に、元の静かな空気を取り戻
した。だが僕は、顔が熱くなる位に恥ずかしく、情けなくなってし
まい、隣に立っている老人の顔を見る事も出来なかった。
本当ならば一番近くに立っていた僕が、二人を止めなければならな
かったのは、誰の目にも明らかだったのだ。やるべき事をやらなか
ったのは、この僕なのだ。
そんな無様な僕など気にも止めず、まるで僕などそこに存在しない
かの様に、あの腕は目の前を横切っていった。

それ以来僕は、事あるごとにあの腕を見る様になった。

生きるのに疲れて立ち止まった時、打ちひしがれて殻に閉じこもっ
た時、何もかも投げ出して享楽に溺れた時、突然何の前触れもなく
あの腕の幻影が現れ、僕の目の前を横切っていく。

腕は決して僕を救おうとはしない。ただ目の前を横切るだけだ。
すると僕の心にまた、あの恥ずかしく、情けなく、無様な感覚が甦
って来て、再び重い足を上げ、硬い殻を破り、投げ出したものを拾
い上げる。そうやってどうにか、今日まで生きて来られた様な気が
する。

多分あの腕が見えなくなる時が、僕が死ぬ時なんだろう。






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