(8)
頬をつたう汗が風にさらされ、その冷たさだけが妙に身に
染みるのを感じた。
僕は校舎の屋上の角に立ったまま、その時をじっと待って
いた。
だがいつまで待っても、Sは背中を押しては来なかった。
ただ時折吹く強い風だけが、心もとない僕の体を、ゆらゆ
らと気まぐれに揺らしていた。
突然、静寂を切り裂く悲鳴が、耳に突き刺さって来た。
危うく足を踏み外しそうになるのを、何とか金網にしがみ
ついて持ちこたえ、僕は呪縛から解かれた様に我に返って、
校舎の下を見下ろした。そこにいた何人かの生徒たちが、
慌てた様子で僕の方を指さしていた。
咄嗟に僕は金網をよじ登り、階段を駆け下りて、屋上から
ひとつ下の階の廊下へ走り込んだ。するとその直後に階下
から、慌ただしく階段を駆け上がって来る何人かの足音と
話し声がして、そのまま屋上へと通り過ぎて行った。
僕はほっと一息ついて、額の汗を手で拭い、息を整えて何
事もなかった様に、そのままゆっくりと廊下を歩いて行っ
た。
その後、屋上にいたのが僕だという事は誰にも気づかれず、
「あれはSの幽霊だった。」などと言う、いい加減な噂が
まことしやかに流れたりしたが、やがてそんな噂も、事件
そのものも、謎のまま徐々にみんなの話題から消えて行っ
た。
結局僕には、Sという人間が何者だったのか、最後まで理
解出来なかった。
被災地はその後、少しずつ復興していったが、その過程で
は、避難民への心ない偏見や、大量のがれきの受け入れに
反対する世論や、時間とともに熱が冷めた様に減っていく
ボランティアなど、慈善の皮を被った偽善の素顔が見え隠
れするニュースが時折聞こえて来て、その度に僕は、「不
幸になる覚悟がなければ、人を幸福にする事は出来ない。」
という、あのSの言葉を思い出さずにはいられなかった。
時は流れて、僕はすっかり大人になったが、あの時Sと交
わした、最初で最後のあの会話を、今でも忘れる事が出来
ない。
時々、僕は鏡を見る。
そこに映し出された自分の顔と対峙し、この男は一体何者
なんだろうと考える。
もう少年の面影はなくなってしまったが、その目だけはあ
の頃の、十七歳の時の目と少しも変わっていない、そんな
気がする。
そして僕はその目の中に、あの冷たく覚めた、人をあざ笑
っている様な、それでいて何処となく悲しげな目を探すの
である。
もうひとりの十七歳の目を。
<終>
2013.5
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