(5)


ここまで私は「社会は人が人を殺す事を認めていない。」
という前提に基づいて考えて来たのだが、果たしてこの前
提に、誤りはないのだろうか?
本当に社会は、人殺しを認めていないのだろうか?

もしもこの世に、リンゴが存在しなかったら、その皮をむ
く為のナイフも、存在しない筈である。
同じ様に、もしもこの世に「人殺し」が存在しなければ、
その「罰」としての「死刑」も、存在しない筈だ。

ところが社会は、この「死刑」という「罰」を堂々と掲げ、
正当化している。
すなわち社会は、その「罰」の対象であるところの「人殺
し」の存在をも、容認している事になるのではないか?

もっとはっきり言ってしまおう。
もし仮に「死」という「罰」を受け入れる覚悟があるので
あれば、その人間は、人を殺してもいいのではないか?

社会が「死」という「罰」を、「殺し」に対して相応と判
断したこの「罰」を、その罪人に課した時点で、「罪」と
「罰」とは相殺される筈なのだから。

ここに至って、遂に私は、確信を得ることに成功した。
これで私は、社会の秩序にも、自分の良識にも反する事な
く、人を殺せるのだ。
人を殺す事で、死の恐怖を克服し、また自らも死ぬ事で、
殺しの罪を帳消しに出来るのだ。

諸君、私はこれからこの確信に基づいて、見も知らない一
人の人間を殺し、そして自殺しようと思っている。
今、私はこの計画に、はっきりと意味を見い出せたと思っ
ている。
諸君にとって、私は負け犬であろうが、それでも私は満足
だ。
私は、諸君に負けたかもしれないが、私自身には勝てたの
だ。
諸君がこれを目にする時には、私はもう、この世にはいな
いだろう。

もしかしたら諸君は、私の犯す罪に、少なからず傷つき、
悲しみ、憎悪するかもしれない。
私は、それを歓迎する。
それこそが、私の生きた証しなのだから。
私が諸君の心に遺す、DNAなのだから。
それでもその中の、ほんの一握りの人たちには、私の真意
が解って貰えるだろうとも思っている。
私の苦しみは、その人たちの苦しみでもあり、その苦しみ
を乗り越える術が、ここに書かれているのだ。

ひょっとすると私は、狂っているのかもしれない。
あまりにも巨大な悲しみ、孤独、恐怖、絶望が、私の精神
を犯し、この様に極端な考えを持たせ、実行させようとし
ているのかもしれない。
だがもう、そんな事はどうでもいい。
今となっては、この確信に身を任せるしか、道はない。

さて、長々とつまらない話をして来たが、そろそろ言いた
い事も、尽きた様だ。
諸君もいい加減、飽き飽きしている事だろう。
この辺で、筆を置く事にしよう。

縁があれば、また会おう。
君の心の中で。>





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