最終章 世界の終わりの前日に



気を失ったサトルは、駆けつけた警官たちの手で病院に運
ばれ、そこで手当てを受けた。
手と首の傷はごく浅く、処置はすぐに終わった。
サトルの意識は、搬送される途中に戻り、病院に着く頃に
は、自力で歩けるまでに回復していた。

それから彼は、点滴を受け、しばらくベッドで休んだ後、
警察署へと移送された。

警察で彼は、指紋と、何枚かの写真を撮られ、その後、取
り調べが始まった。
取り調べは事細かく、延々と続き、終わった時はもう、夜
中近くになっていた。
彼のために、夜食が用意されたが、それには殆んど手を付
けず、水だけ飲んで済ませた。

その後彼は、署内の狭い留置場に入れられたが、そこには
彼以外、誰も入っていなかった。
据え付けのベッドに横になっていると、間もなく不意に、
灯りが消された。
部屋が暗くなってからも、彼はしばらくの間、仰向けに天
井を見つめていたが、そのうち激しい疲労感に襲われて、
いつの間にか、眠りに落ちていた。

その夜、サトルは夢を見た。

それがどんな夢だったか、目が覚めた時にはもう、覚えて
いなかったが、ただ夢の中に、ミユとチエが出て来たらし
い事だけは、ぼんやりと記憶に残っていた。
そしてそれが、とても幸福な夢であったという事も、間違
いなかった。
何故なら、その夢から覚めた後も、彼の胸には、夢の中に
いた時の幸福な温もりが、鮮やかに残っていたからだ。

まだ暗く静かな、留置場のベッドの上で、彼はその温もり
を抱きしめながら、声を押し殺して泣いた。

(あの爺さんの言う通りだ。俺には人は殺せない‥‥
俺はただ生きるしか、能のない人間なんだ‥‥)

これは、敗北だろうか?
だが彼の心には、不思議なくらいに、屈辱感はまるでなか
った。
ただ、ミユの顔とチエの顔が、交互に浮かんでは消え、浮
かんでは消え、その度に温もりは、脈を打つように震え、
繰り返し胸を締めつけた。
涙は、いつまでも流れ続けた。

彼は思った。
この温もりをいつまでも、何度でも思い出したいと。
そのために、ただそれだけのためにでも、生きていたいと。
たとえ今日が、世界の終わりの前日でも、この気持ちに変
わりはないだろうと。

夜はもう、明けているのだろうか?
まだだろうか?
暗く静まり返った留置場の中では、サトルがそれを知る術
は、何もなかった。

                       <終>
                       2012.10





前へ          戻る