第一章 事件

(1)


夏、白昼。
強い陽射しの照りつける街。
一人の男が、通りの脇のベンチに腰かけている。
年の頃は30前後、中肉中背でボサボサの髪に無精ひげを
生やし、季節はずれの黒い長袖の、薄汚れた上着を着てい
る。
かれこれもう一時間以上、男はそこに座って、道行く人た
ちを眺めている。口元には薄笑いを浮かべ、その眼は虚ろ
で、時折、突然かっと見開いては、またすぐ暗い目つきに
戻るのを繰り返していた。

通りを行き交う人たちは、この怪し気な男に対して皆無関
心で、何人かは不審そうに彼の方に視線を向ける者もいた
が、目を合わせるのを嫌ってか、すぐにその視線をそらし
通り過ぎて行った。

不意に男は立ち上がり、ふらふらと通りを歩き出した。
両手を上着のポケットに突っ込み、歩調は異常な程ゆっく
りで、他の歩行者たちが次々に、彼を後ろから追い越して
行った。
その背中を一人一人眺めながら、男は相変わらず口元に薄
笑いを浮かべ、行く当てもなさそうに歩いていた。

しばらくすると、男はまた道端に現れたベンチに腰を下ろ
した。
その顔からは、つい先程までの薄笑いは消え、びっしょり
と汗に濡れ、何か深刻に思いつめた様な、強張った表情に
変わっていた。
まるで大海を泳いで渡って来た後の様に、疲れ切ってうな
だれていた。

男の足元に何処からか、小さな赤いゴムボールがころころ
と転がって来た。
彼が無意識にそれを拾い上げると、小さな女の子が近寄っ
てきて、戸惑い気味に彼を見つめた。
ボールをその子に渡してやると、にっこり笑い「ありがと
う」と言って、逃げる様に走って行った。
彼は苦々しく笑った。
それは自分に対する、嘲りの笑いだった。

彼は両手で頭を抱え、髪を掻きむしって、足元の地面を睨
み付けた。
何かとてつもなく巨大なものが、彼の心に襲いかかり、必
死にそれを払い除けようと、絶望的な抵抗をしているかの
様だった。

やがて男は顔を上げた。
精も根も尽き果てた表情だった。両眼には再び、虚ろな光
が戻っていた。
そして再び、ゆっくりと立ち上がり、歩き出した。





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