「古井戸」



古井戸のそばに女が立っている。辺りはしんと静まり返っ
ている。そこは深い森の中だった。
森の外には楽園があるはずだった。その証拠に時折風に乗
って、あたたかな春の音色が聞こえて来る。しかし、女は
森に留まっていた。女は古井戸から離れることが出来なか
った。
水は枯れていたが、井戸を覗くと下界の様子が見えた。女
はいつもその井戸から一人の男を見ていた。疲れた顔つき
の痩せた男だった。
半年前に妻を病気で亡くしてから、男は枯れ木のように憔
悴して、生きていながら生きていないようだった。外に出
ることは滅多になく、一日家に閉じ籠って、妻のことばか
りを思い出して、何をするでもなく時をやり過ごしていた。
ごく稀に日が落ちる頃にふらりと表に出掛けても、ただ町
なかを宛もなくさ迷い歩いて、疲れて帰って来るだけだっ
た。
女はその男が気がかりで、古井戸のそばを一時たりとも離
れることが出来なかった。男の空っぽの胸の内が目に見え
るようで、悲しくて苦しくて仕方がなかった。
女は、その男の死んだ妻だった。

ある冬の寒い日、男は珍しく朝早くに家を出た。空は氷を
張ったような冷たい雲に覆われていた。
男は町外れにある寂れた墓地にやって来た。
墓地の中を縫うように歩いて、一つの墓の前に立ち止まっ
た。妻の墓だった。
男は手を合わせるでもなく、日が暮れるまで妻の墓前に佇
んでいた。辺りが薄暗くなってようやくその場を離れると、
そのまま引き返さずに、墓地の奥にある枯れ木の林の中へ
入っていった。
林の中は鉛のように暗かった。男は行く宛もないのに、ふ
らふらと休むことなく奥へ分け入った。帰ることなど頭に
ない様子だった。
すると少し先の方に、何かの黒い影が現れた。近づいてみ
ると、それは古井戸だった。
井戸は草木に覆われ荒れ果てていて、その上には朽ちかけ
た木の板が蓋代わりに置かれていた。
男は木の板を退けて、井戸の中を覗いてみた。真っ暗で底
が見えなかった。男は吸い込まれるようにその闇に見入っ
ていた。その顔は不気味なほど穏やかだった。
女は森の井戸から、不安げにその様子を見ていた。すると
男が不意に井戸に手を掛け、身を乗り出した。
女の顔が見る間に青ざめていった。
「駄目!自ら命を絶ってしまったら、魂まで滅んでしまう
!」
男は井戸に片足を掛けたが早いか、そのまま頭から飛び込
んだ。
ああっ、と悲痛な唸り声を上げて、女も後を追うように井
戸に身を投げた。
夫は妻に向かい、妻は夫に向かって堕ちていった。
次第に加速を増して、光の速さになった。時間が止まった。
そして中心で衝突した。
瞬間、宇宙全体が真昼のように明るく輝いた。
光はすぐに消えた。
二人は消えてなくなり、あとには二つの古井戸だけが残っ
た。森の中は夢のようにしんと静まり返り、下界は何事も
なく動いていた。

消えてなくなるほんの一瞬、二人はひとつになった。

その一瞬は永遠であった。






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