「ハンカチ」
ハンカチをなくした。ただそれだけだ。実に他愛ない。た
だそれだけなのに、こんなに動揺するとは‥‥
水彩絵具を滲ませたような雲が、夕陽を浴びて輝いていた。
一日の仕事を終えた僕は、扉の窓越しに広がる黄金色の景
色に見とれながら、乗客も疎らな電車に小一時間ほど揺ら
れて、郊外の街へ帰って来た。
家路につく前に、駅の近くにある小さな図書館に立ち寄り、
椅子に座って何を読むでもなく、しばらくぼおっとして疲
れた体を休めるのが日課になっていた。その日も僕は、ひ
ととき図書館の椅子に身を沈めた後、帰り際トイレに立ち
寄った。
用を足し手を洗って、指先でポケットの中を探る。ない。
ハンカチがない。もう一度、今度はさっきより深く指を入
れてみる。やはりない。一旦気を取り直し、ジェットタオ
ルで手を乾かしてからもう一度、いつもハンカチを入れて
いるズボンの後ろポケットの中をぐるぐる掻き回してみる
が、ハンカチは指に掛からない。この辺で少々心拍数が上
がって来た気がした。
あたふたと全身のありとあらゆるポケットに手を突っ込ん
でみたが、ハンカチは何処にもなかった。
いやいや、そんな馬鹿な。
そこにある筈のものがないという奇妙な感覚に襲われ、僕
の思考は停止し、一瞬体が固まった。
いやいや、そんな馬鹿な。
愚かにも僕は、先程と同じ言葉を心の中で繰り返し、もう
一度全身のポケットを探ったが、当然無駄な努力だった。
この期に及ぶとすっかり気が動転していた。
落ち着け。
ふうっとひとつ軽く息を吐いて、僕は自分にそう言い聞か
せた。今日、ハンカチを使う機会は何度かあった。家から
持って来るのを忘れたということはない。落としたとする
と図書館の中か、駅からここまでの道すがらか、電車の中
か、電車の中ならもう探しようがないな‥‥
そんなことを考えているうちに、だんだん諦めの気持ちが
湧いて来たが、どうにもやるせない、もやもやしたものが
胸にこびりついて離れなかった。
いつまでも考えていても仕方ない。ひとまず図書館に戻っ
てみて、それから駅までの道を引き返して、それで見つか
らなければ諦めよう。
僕は図書館に戻って、先程まで座っていた場所に向かった。
その椅子には誰も座っていなかった。僕はゆっくり椅子に
近づいて、中を覗き込んだ。
あった!
ハンカチはそこにあった。ベージュ色の椅子の座板と背も
たれの間の隅に、紺色のハンカチが心細そうにへばりつい
ていた。
それを見た瞬間、胸のもやもやが跡形もなく消え、僕は心
の自由を取り戻した。この時程このハンカチを愛おしく思
ったことはない。僕はハンカチをそっと拾い上げると、こ
こにひとり取り残して行ったことを詫びた。そして改めて、
こんな些細なことで慌てふためいていた自分に呆れて恥ず
かしくなった。とにもかくにも僕は安心して、鼻唄でも歌
いそうな気分で図書館を出た。
黄金色の日は暮れ、通りはもう青い闇に沈み始めていたが、
僕は裏腹に軽やかな足取りで家路に着いた。
夕食の時間、テーブルを挟んで向かいに座っている妻に、
事の顛末を洗いざらい白状した。妻は子を見る母親のよう
に、呆れた顔をして笑った。
「大袈裟ね。そんなことで大慌てするなんて。」
小恥ずかしいやらくすぐったいやら、僕は所在なく照れ隠
しの苦笑いを浮かべるしかなかった。
「ハンカチって、どのハンカチ?」
「ほら、去年の誕生日に君に貰った紺色のハンカチだよ。」
「ああ‥‥」
その時、妻の呆れ顔がほんの少し柔らかく変わったのを、
僕は抜かりなく見逃さなかった。
一矢報いた、そう思った。
それだけで僕は満足だった。
戻る
|