「色」



(少年は森の中で、不思議な泣き声を聞きました。声はすれども辺
りには、誰の姿もありません。
「君は誰?何処にいるの?」
少年が恐る恐る尋ねると、声の主は答えました。
「私はカメレオンです。今、あなたのすぐ目の前にいます。
私は、体の色を自由に変える事が出来るので、周りの色に合わせて、
姿を消しているのです。
それが面白くて、毎日姿を消しているうちに、自分の本当の体の色
を忘れてしまいました。
だから私は、誰の目にも見えないまま、この世にいないのと同じな
のです。」
そこまで言うとカメレオンはまた、しくしくと泣き出しました。)

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

「さて、次のニュースです。」
テレビ局のスタジオ。アナウンサーがカメラに向かい、その日に起
きた出来事を報じている。
彼が、この物語の主人公である。

次から次へと手元に差し出されるニュースの原稿。それを瞬時に、
的確に読み上げていく。
ただ読むだけではない。その内容に合わせて表情を変え、適度の感
情を吹き込む。悲しいニュースには悲しい顔、明るいニュースには
明るい顔、その切り替えが重要なのだ。

そのため彼は、自分の感情を殺して、状況に応じた感情を意識的に
作り出し、切り替える技術を身につけた。
そして、今ではもう意識しなくても、ニュースの内容に応じて、自
動的に感情を作り出したり、消したり出来る様になっていた。

まさにプロフェッショナル。そんな自分に、彼は誇りを持っていた。

その日も彼は、重苦しい面持ちで、殺人事件の原稿を読み上げた直
後、一瞬で笑顔に変わり、有名人の結婚のニュースを報じたのであ
る。
‥‥‥‥‥

夜、仕事を終えた彼が家に帰って来た。
午後八時。こんな早い時間に帰ってくるのは、久し振りの事である。
だからといって、特別浮かれた気分になるでもなく、いつもと同じ
穏やかな心持ちで、彼は玄関の扉を開けた。

するといきなり、彼の妻と目が合った。
彼女はスーツケースを抱えて、そこに立っていた。今まさに靴を履
いて、外へ出ようとしていたところの様だった。

「早かったのね。」彼女は驚いた様子で言った。
「何処へ行くんだ?」妻の言葉には答えず、彼は尋ねた。
「出ていくのよ。」
「出ていく?」一瞬、彼は狼狽して言った。「何を馬鹿な‥‥」
「私、本気よ。」
「でも、一体どうして?」
「判ってる筈だわ、あなたには。」

確かに彼女の言う通り、思い当る節はあった。
二人は共に仕事を持っていて、お互い忙しく、夫婦すれ違いの生活
が長く続いていて、たまに顔を合わせても、何となくよそよそしく、
ぎくしゃくしてしまう、そんな状態になっていたのだ。

「だけど何も、いきなり出て行かなくても‥‥」
「止めても無駄よ。」慌てて引き止めようと言葉を探す夫に、彼女
は冷たく言い放った。「あなたは人が変わってしまったわ。まるで
感情のない、機械のよう。」
「まさか、そんな事‥‥」彼はぎくりとしたが、それを誤魔化す様
に笑ってみせた。
「その顔よ!その笑顔! 顔は笑っていても、心の底では笑ってい
ないんだわ! 昔のあなたは、そんなじゃなかったのに‥‥」
「それは‥‥」

職業病、そう口に出かけて押し殺した。
感情を殺して、感情を操る‥‥この習慣が、気づかぬうちに私生活
にまで入り込んでいたのだ。

「私にはもう、あなたの事が判らなくなりました。何も信じる事が
出来ません。」
「でも僕は‥‥信じてくれ! 君を愛してるんだ! お願いだ!
  行かないでくれ!」震える声を絞り出して、彼は必死に訴えた。
彼女の目から涙がこぼれ落ち、その顔は悲しみに歪んでいた。
「さようなら‥‥」
全てを振り払う様にして、彼女は玄関を飛び出して行った。

ゆっくりと閉まってゆく扉。
その向こう側、遠ざかっていく妻の足音。
カチャリと扉が閉まり、後に残る重い静寂。
彼の心を、深い悲しみが覆い尽くしていた。
終わってしまった‥‥何もかも‥‥


次の瞬間、信じられない事が起きた。

今の今まで、彼の心を支配していた悲しみが、突然、跡形もなく消
え失せて、さっき玄関の扉を開ける前までの、何もない、平穏な心
持ちに戻ったのだ。
(これはどうした事だろう?)と彼は思った。
(まるでニュースの原稿を読んでいる時と同じだ。喜怒哀楽、その
状況に応じた感情が自動的に生まれ、状況の変化と共に消える。
それを俺は、今も無意識のうちにやっていたのか?
だが、今俺は本当に悲しかった筈だ。それともあの悲しみも、俺の
本当の感情ではなかったというのか?
だとしたら、俺は一体‥‥‥)

一瞬、背筋が寒くなった。
が、次の瞬間にはもう、その戦慄は消え去り、元の平静を取り戻し
ていた。
いつもの様にソファに座り、テレビのスイッチを入れて、新聞を手
に取った。今、彼の心には、何の感情も存在しない。
あるのはただひとつ、こんな気がかりだけだ。

(明日の朝は、何時に起きればよかったのかしら?)






              戻る