「肩の荷」



夜が明け、徐々に空が明るみつつある山間の小さな村、そこにひと
つだけある小さな診療所の前に、白衣の若い男が一人、疲れた様子
で煙草を吸いながら立っている。
この診療所に勤める医者である。

都会の大きな病院から、こちらに移り来てまだ間もないこの青年医
に、昨日の夜、ある試練が訪れた。
山の中で熊に襲われ、瀕死の重傷を負った若い女が担ぎ込まれて来
たのだ。
女は一刻を争う危険な容態で、町の病院に移送する猶予もなく、彼
の手ですぐに手術をする必要に迫られた。
正規の看護師もおらず、充分な設備も整っていないその診療所では、
医者としての経験もまだ浅い彼にとって、それは大変な覚悟のいる
決断だった。

手術は困難を極め、深夜から夜明けまで延々と続いた。
そしてその結果、女は命をとりとめ、彼は無事その重い責務を果た
す事に成功した。

今、彼は煙草を吸いながら、昨夜背負い込んだ肩の荷が降りたのを
感じ、心地のいい疲労と眠気のなかで、言い知れぬ解放感と達成感
とに浸っていた。
それは、都会の病院では味わう事の出来なかった、人の命を救うと
いう、本来彼が望んでいた、医者という仕事のあるべき姿を肌で感
じる事の出来る瞬間で、彼はまさにそのために、この小さな村に単
身移り住んだのである。

(体に傷は残るだろうが、幸い顔は無傷だ。とにかく、命が助かっ
てよかった。)

昇り始めた朝日を眺め、両手を広げ体を伸ばし、大きくひとつ深呼
吸をして、彼はまた診療所の中へと入っていった。

患者の女が寝ているベッドの傍らに、初老の男が一人立っている。
この村の村長である。
病室に戻った医者は、硬い表情で患者を見守っている村長の横に歩
み寄り、静かに話しかけた。

「大丈夫、この子は助かりますよ。」
「よかったんだろうか? 助かって‥‥」
「えっ?」

予想外の返事に、医者は少し驚いて小さな声を上げた。
村長はその硬い表情を、患者から医者へとゆっくり移した。

「いや、こんな事あんたに言うべきじゃなかったな、すみません。
先生には感謝してます。こんなへんぴな山奥の村に、よく来て下さ
った。本当に助かってます。」

医者が促し、二人は壁際の椅子に腰掛けた。小さな窓からは、朝日
が差し込み始めていた。
椅子に座ると、村長は再びゆっくりと話し出した。

「この子はまだ結婚したばかりなんですよ。ちょうど一年ぐらいに
なるのかな‥‥仲のいい夫婦でね、亭主もとても優しくて。結婚し
てすぐ子どもも産まれて、まあ、幸せの盛りってやつでしょう。
昨日は家族揃って、山の中へ出かけて行った様です。たぶん、山菜
取りにでも行ったのでしょう。
暗くなっても戻って来なかったので、心配して村の者が何人か探し
に行きました。それで見つけたんです。熊に襲われて、血だらけで
倒れているこの子を。
ここへ担ぎ込んだ後も、村人総出で夜通し、亭主と子どもを探しま
した。それで‥‥ついさっき、二人を見つけたんです。この子が見
つかった場所よりもっと奥の方で。でも‥‥その時はもう‥‥二人
とも‥‥」

ここまで話すのがやっとという様に、村長は大きくため息をついた。
医者は返す言葉も見つからず、ただ黙って床に視線を落としていた。
窓から差し込む光が、ベッドの上で眠っている女の顔を、明るく照
らし出している。
村長はそちらに視線を送って、またその重い口を開いた。

「この子はまだ若い。これから先、いくらでもやり直せるでしょう。
でも‥‥このあと目が覚めて、すべての現実を知った時の事を思う
と‥‥」

医者はゆっくり顔を上げ、女の寝顔を見た。
その時ふと、かすかに、女の口元がほころんだ様な気がした。
愛する夫と子の夢を見ているのだろうか?

医者は自分の両肩にまた、新しい荷がのしかかって来るのを感じて
いた。
昨夜のそれとは全く異質な、掴みどころのない、それでいてとてつ
もなく重い荷が。

                          (2014.1)






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