「奇跡」



振り返っても何ひとつ、嬉しかったことや楽しかったこと
など思い当たらない人生だった。

まだ冬の寒さが残る三月の夜、人通りのない都会の裏道の
暗がりの中に、年の頃十五、六歳くらいの色白の痩せ細っ
た少年が、顔だけ横に向けてうつ伏せに倒れている。少年
は酷く衰弱して、もう指一本動かすことが出来なくなって
いた。

「何もなかった。本当に僕には、何もなかった。」

死が近づいているのを直感で悟った少年は、薄れる意識の
中で、その短過ぎる人生を振り返ろうとしていた。

幼い頃のことは、もはや彼の記憶には残っていなかった。
ただ、両親が死んで遠縁の親類に引き取られ、そこで酷い
仕打ちを受けたことは、おぼろげに思い出すことが出来た。
はっきりと憶えているのは、その家を飛び出した後からの
ことだった。

行く当てもなく金もなく、町をうろついているところを、
悪い大人たちに声をかけられ、悪徳な商売の片棒を担がさ
れて警察に捕まった。しばらく拘束された後、扱いに困っ
た厄介者を追い払うように釈放された。

それからまっとうな仕事を探したが、宿無しの前科者を雇
ってくれる所など何処もなかった。

少年は路上生活者となったが、飢えと冬の厳しい寒さが、
徐々に彼の体を蝕んでいった。
そして風邪をこじらせ、高熱に見舞われて、この裏道にさ
迷い込んで力尽きたのだった。

「何もなかった。本当に僕には、何もなかった。」

過去から現在まで、ひとしきり回想をし終えると、あとは
もう少年に出来ることは残っていなかった。彼は人形のよ
うに無感覚になって、ただじっと死の時を待った。

奇跡が起きたのは、その時だった。

ふと彼は、すぐ目の前のアスファルトの割れ目から、一本
の小さな草が生えているのに気づいた。寝返りを打つこと
も、顔を背けることも出来ない彼は、否応なしにその草を
見つめた。
すると、その先端に垂れ下がっていた蕾(つぼみ)が音も
なく静かに開いて、名も知らぬ白い小さな花が咲いた。

少年は、思わず息を呑んだ。
それはもう奇跡としか言い様のない光景だった。

「なんて、なんて美しいんだろう!」

少年は未だかつて、こんなにも美しい光景を見たことがな
かった。
不思議なことに彼はその一瞬で、生命とは何か、宇宙とは
何かをはっきりと理解した。そしてこの時、自分がなぜこ
の世に生まれて来たのかがはっきりと解った。

「ああ‥‥僕はこれを見るために生まれて、今まで生きて
来たんだ。」

少年はこの時生まれて初めて、幸福とはどういうものなの
かを知った。彼は今、幸福だった。
少年は、人生の最期にこのような結末を用意してくれた神
に感謝した。


さて皆さん。物語は間もなく終わろうとしているが、これ
は不幸な少年の悲しい物語だろうか?
だが彼は、名もない一輪の花の誕生を目の当たりにして、
幸せだったのだ。人生の中でそれ以上の、何を望むことが
あろう?


傍らで新しく開いた小さな生命を見守りながら、少年は静
かに眠りについた。






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