「金色の糸(こんじきのいと)」



一陣の風が彼の髪を揺らした。墨で塗り潰したような空に、
ただのひとつの星も浮かんでいない。目先を下へ落として
いくと、街の灯りを散りばめた絨毯が広がっている。だが
彼は知っている。これら人工の光は瑠璃や琥珀やクリスタ
ルなどではなく、汚れた心が産み出す欲望によって輝いて
いるのだと。
仕事に行き詰まると彼はよく、部屋を抜け出し、このマン
ションの屋上へ昇って来る。灰色のコンクリートで固めら
れた床以外何もない、四方を錆び付いた金網のフェンスで
囲まれた狭い空間。そのフェンス際に佇んで、夜更けの街
をぼんやりと眺めていた。
俺はまた一人、人を殺そうとしている‥‥そんなことを考
えながら。

「これまで俺は、どれだけの命を奪って来ただろう?俺の
描き出す世界の住人たちは、さぞや無慈悲な神を恨んでい
るだろうな。」

美しいものに憧れて、美しいものが書きたくて彼は作家に
なった。だが彼の才能は彼の目指す場所を拒んだ。彼の才
能は美しいものより、醜い現実の方を向いていた。
強欲、妬み、欺瞞、憎悪、暴力、犯罪、戦争‥‥自らの目
を潰したくなる程、現実の世界は陰惨に染まって映った。
美を求める彼の心は、こうした現実によって閉じ込められ、
幾重にも鍵を掛けられ、鉛の重りを繋がれ、奈落の底へ沈
められてしまった。
彼は彼の才能のなすがままに、現実をなぞるように陰惨な
小説を書いた。自分の小説の中で現実の不条理をそっくり
そのまま真似て、この世界の作者たる神に見せつけてやろ
うと目論んだのだ。それが心を閉じ込められた彼なりの復
讐だった。しかし、どれだけ書いても満たされることはな
く、むしろ倦怠と虚しさが増すばかりだった。

「なんて残酷な世界。なんて残酷な神。俺の書くものなど
到底足元にも及ばない。」

空の色が変わり始めた。じきに夜が明けようとしている。
いつの間にか灯りの消えた街並みをぼんやり眺めながら、
彼は書きかけの小説のことを、やはりぼんやりと考えた。
小説は終幕を迎え、今まさに主人公を殺そうとしたところ
で筆を止め、ここへやって来たのだった。彼はもう、自ら
が創造した命を容赦なく奪うことに疲れ果てていた。

「俺はあの話の結末を書き上げてしまう前に、いっそ死ぬ
べきなのか?」

ふと、彼の脳裏にそんな閃きが生まれた。してみるとそれ
は、至極真っ当な考えに思えた。ぜんたい自分は何故生き
ているのだろう?
彼はおもむろに目の前の金網に手を掛けた。これを乗り越
え、向こう側に身を投じることなど造作もないと思えた。
心は恐ろしいぐらいに平然としていた。

その時である。

彼の目に微かなきらめきが飛び込んで来た。空と街の境目
から朝日が顔を覗かせたのだ。一筋の陽光は地平線の上に
幅を広げていき、緩やかに高さを増して、見る間に金色の
糸を四方に延ばした。生まれて初めて日の出の美しさに触
れた子供のように、彼は息を呑み立ちすくんだ。

「自然よ、お前はどうしてそんなにも美しいのか。引き換
え俺の絶望の、何と小さなことか。お手上げだ。とても太
刀打ち出来ない。自然よ、俺の負けだ。」

知らぬうちに滲み出た涙が一筋、頬をつたった。長い間忘
れていた感覚だった。
しばし朝日の行方を目に焼き付けた後、彼はひとつ小さく
息を吐いて金網から手を離し、光に背を向け歩き出した。
諦めと覚悟がない交ぜになった、しかし不思議に晴れ晴れ
とした心持ちだった。

「これから俺は、あの忌まわしい話の結末を書き上げねば
ならない。この先もそうした話を書き続けるだろう。だが
いつか、ちがう何かが書けるかもしれない。闇の中に一筋
の光が射さないとも限らない。俺はそのために書く。その
ために生きる。たとえ今は何も見えなくても。」

この晴れやかな決意は揺るぎないものだろうか?そうでは
なかろう。いずれ彼はまたもや挫折と絶望に打ちひしがれ
て、夜更けの屋上へ昇って来るだろう。だがそれが何だと
いうのだ?
夜は何度でも明け、太陽は何度でも昇り、金色の糸を広げ
るものなのだから。






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