「魔法」



皆さんは、魔法はあるとお思いだろうか? 
実はあるのだ、これが。

当時、僕は仕事を解雇され、恋人には去られ、辛い日々を送ってい
た。
新しい仕事も、新しい恋人も見つからず、見つけようという気力も
失って、次第に生活は苦しくなり、心はすさんでいった。

そんなある冬の日、僕は一人公園のベンチに座って、正面にあるブ
ロック塀を睨み付けながら何もせず、ただ時間を潰していた。

「寒い‥‥」
ふと僕はそう呟いた。
それは、文字通りの空気の寒さと、世間の風当たりの冷たさという、
二つの意味の呟きだった。

僕は立ち上がり、石ころを拾い上げブロック塀に近寄って、一面に
石で大きく「COLD」と刻み込み、再びベンチに戻り腰掛けて、
それを眺めた。
しかし、心は少しも波立たず、苦々しい思いだけが残った。

そのままどのくらい時間が過ぎたろうか、ふと一人の老人がベンチ
に近づいて来て、僕のすぐ横に腰を下ろした。
それは、その周辺でよく見かけるホームレスの老人だった。
老人はブロック塀をまじまじと見ながら、ゆっくり僕に話しかけて
来た。
「嫌な事でもあったのかな?」

僕が何も答えずにいると、老人はなおも話し続けた。
「なに、そう塞ぎ込むものでもないさ。またじきに、いい様に転が
っていくさ。」

僕は何も返事を返さず、老人の方を見向きもしなかった。
すると老人は、穏やかに笑いながら言った。
「こんなわしが言っても、信じる気にはならんかな?」

僕はこの老人に、だんだん嫌気が差してきた。こんなホームレスに
さえ同情されている自分が、何よりも情けなかった。
僕は黙ったまま、おもむろに立ち上がりベンチを離れ、そのまま公
園を後にした。

僕の人生に少しずつ変化が現れ始めたのは、そんな出来事があって
からしばらく後の事だった。

毎日のあり余る暇に任せて物思いに耽っているうちに、ふと僕は子
供の頃、絵を描くのが好きだった事を思い出した。
それで僕は、再び絵を描き始めてみた。
絵具や筆やキャンバスなどの道具を買い揃える金はなかったので、
あり合わせの紙とペンで、何もテーマを決めずに、ただ思いつくま
まに線を走らせた。

すると僕は、この作業にどんどんのめり込み、夢中になっていった。

紙一面が線で埋まり、描き続ける余地がなくなると、紙を替えて次
の絵に移った。こうして作品(作品と言えるかどうかは判らないが)
は、どんどん溜まっていった。

今まで持て余していた時間も、絵を描いているとあっという間に過
ぎて行った。
絵を描く事以上に面白いと思えるものは何もなかったので、当然金
も使わなくなり、生活の苦しさは、苦しみと感じなくなっていった。

それから僕は、半日だけのビル清掃のバイトを始め、最低限必要な
金だけを稼ぎながら、この生活を続けた。
描き溜めた絵は年に一回程度、小さな安いギャラリーを借りて、さ
さやかな展示をした。

こうして僕の生活は、すっかり変わった。
暮らしぶりは相変わらず貧しかったが、心の充実感は、以前とは比
較にならないものだった。

ある日、僕が公園の近くを歩いていると、あのホームレスの老人を
見かけた。
僕は居ても立ってもいられなくなり、老人に駆け寄って話しかけた。
「僕の事を覚えてますか? あなたは以前、塞ぎ込んでいた僕に声
を掛けて、励ましてくれましたよね? あれから僕はすっかり変わ
りました。人生が好転し始めたんです。あなたの言う通りでしたよ
!」

すると老人は僕の顔を見て、以前と同じ穏やかな笑顔を見せて言っ
た。
「なあに、わしがちょっとした魔法をかけておいたのさ。」
「魔法?」
「ああ。公園へ行って見てごらん。ほら、前に君が落書きをした、
あの塀だよ。」

僕は訳も判らず、老人に言われるままに公園へ行き、ブロック塀を
見てみた。
途端に、あっと思わず小さな叫び声を上げてしまった。
そこに書かれた「COLD」の文字に、少しだけ線が書き加えられ
て、「GOLD」になっていたのだ。

皆さん、これが魔法でなくて、何であろうか?

その後、老人の姿を見かける事は、二度となかった‥‥。
などという訳では全くなくて、相変わらずその老人は、公園の周辺
でよく見かけるのである。

                          (2013.7)






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