「寝返り」
郊外ののどかな町。そこにある一軒の古い小さな家に、年
老いた夫婦が住んでいた。夫が仕事を引退してからは、二
人で買い物に出かけたり、家の中のこまごました用事を片
付けたり、庭いじりをしたりして、穏やかに暮らしていた。
一日が終わると食卓を挟んで、妻の作った夕飯を一緒に食
べながら、その日の出来事などを語り合い、その後並んで
床に就いた。
妻はいつも夫に背中を向けて横向きに寝ていたが、寝入っ
てからしばらくすると、寝返りを打って夫の方に向き直っ
た。
夫はこの時を楽しみにして、妻の背中を眺めていた。そし
て寝返りを打ってこちら側に寝顔を見せると、とても幸福
な気持ちに満たされた。妻の寝顔を見ると、安心して眠る
ことができた。彼は毎日、この時のために生きていたと言
ってもいいぐらいだ。
庭の木々が赤や黄に染まった秋のある日のこと。
その夜も、いつものように二人並んで床に就いたが、背中
を向けて寝ている妻は、いつまでたっても寝返りを打たな
かった。夫は妻の背中を見ながら、こちらに顔を向けるの
をじっと待っていたが、そのうち待ちくたびれて眠ってし
まった。
翌朝、妻は目を覚まさなかった。
二人に子どもはいなかったので、それから夫は一人になっ
た。始めのうちは独り暮らしの慌ただしさに追われて、悲
しみに浸る暇もなかったが、慣れない家事に手こずりなが
らも、庭いじりをしたり散歩をしたりして、少しずつ穏や
かな生活を取り戻していった。
夜、夫は一人床に就くと、いつも妻がいた方を向いて目を
閉じて、妻の背中を思い浮かべながら眠りに落ちていった。
そしていつも同じ夢を見た。
夢の中で妻は、以前のようにこちらに背中を向けて寝てい
た。夫は妻が寝返りを打って、こちらに寝顔を見せてくれ
るのを待ったが、妻はいつまでも寝返りを打つことはなく、
そのまま朝になるのだった。
そうして日は過ぎ季節は流れ‥‥
妻が亡くなってから一年が経ったある日の夜、夫はいつも
のように床に就き、目を閉じた。そしていつものように夢
の中で、妻の背中を眺めながら、寝返りを打つのを待って
いた。
すると妻は、ゆっくりと寝返りを打って、夫の方に顔を向
け、静かに目を開け、優しく微笑んだ。
この瞬間、夫は長い間忘れていたものを思い出した。そし
て妻に微笑み返した。それでもう何もかも満足だった。
夜が明け始め、紅葉に包まれ陽の光を浴びて赤く染まった
古い家は、いつもと変わらぬ朝を迎え、いつも通りに起き
てくる筈の主人を待ち受けるかのように、しんと静まり返
っていた。
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