「心中」



郊外の森の中にある、小さな山荘、その寝室のベッドの上に、四十
〜五十代ぐらいの中年男と、それよりひと回り以上若く見える女性
が、寄り添って寝ている。作家とその愛人である。
二人は人生に疲れ果て、ここで睡眠薬を飲み、心中を図ったのだ。

作家は、一時期名が知れたが、もう何年も前から小説が書けなくな
り、世間からも忘れ去られ、生きる気力を失っていた。
酒に溺れ、家族からも見捨てられた彼を、最後まで見放さず、献身
的に尽くしてくれたのが、愛人の女であった。
だが、この女が送ってきた人生もまた哀れなもので、作家同様、希
望を持って生きる術を失くしていた。
そんな二人が、最後の力を振り絞って、この古い山荘まで逃げ落ち
て来たのだ。

作家は仰向けに寝たまま横を向き、女の顔を眺めた。早くも薬が効
き始めたのか、それとも疲れのせいか、女は低い寝息を立てて、静
かに眠っている。
今、彼は不思議なくらいに、穏やかな心持ちだった。この世の全て
に見切りをつけて、死にゆくその時に、愛する人が横にいて、共に
死んでくれる。これ以上、何を望む事があろうか?

彼は死後の世界など、信じてはいなかった。だからあの世で、再び
この女と会えるとは、こればかりも期待はしていない。
天国も地獄も、知った事ではない。ただ最愛の人が、共にこの世を
去る、存在しなくなる、という事に安心していた。
彼女をこの世に残したままでは、死んでも死にきれない、その事が
彼にこれまで、底なし沼の様な苦しみの中でも、何とか死を思い止
まらせていたのだ。
だから彼女が、「一緒に死にましょう。」と言ってくれた時、困惑
しながらも、正直心の底では嬉しかった。
もちろん始めは、若い彼女を道連れにするには忍びなく思い、考え
直す様に説得したが、彼女の決意は、頑として揺るがなかった。

そんな事を回想するうちに、作家もだんだんと、眠気に襲われ始め
た。
(彼女が一緒に死んでくれる。もう思い残す事は、何もない。)
作家は人生の幕引きに、満ち足りた気分を味わっていた。

ふと何気なく、女の手元に目をやると、そこに数粒の睡眠薬が転が
っているのが見えた。
その瞬間、それまで安心しきっていた作家の頭の中に、ある疑念が
生まれた。

(彼女は本当に、薬を飲んだのだろうか? 飲んだふり、眠ったふ
りをしているのでは?
いや、そんな筈はない。俺の見ている前で、確かに飲んだじゃない
か。手元の薬は、ビンに残っていたものが、こぼれ落ちたのに違い
ない。そうしてビンは、ベッドの下に転がり落ちたのだ。)

そう自分に言い聞かせてみたが、彼の疑念は消えなかった。

(確かに彼女は薬を飲んだ、俺はそう思った。だが本当にそうか?
そのあと、死ぬのが怖くなって、俺の見てぬ間に吐き出したのでは
ないか? 俺は致死量の薬を飲んだ。間違いなく死ぬ。だが、この
女は‥‥)
(何て浅ましい男なんだ、俺は! これほど献身的に尽くしてくれ
た人を疑うなんて、恥を知れ!)

そうやって、打ち消そうとすればするほど、疑念は逆に、どんどん
膨れ上がっていった。

(この女は俺の為に、身も心もボロボロになっていた。ほとほと疲
れ果てていた。俺に愛想を尽かせたとしても、何ら不思議はないじ
ゃないか。
もしやこいつは、俺に見切りをつけ、決別する為に、一芝居打った
んじゃないのか? 俺が死んだ後、こいつはひょっこり目を開けて、
舌を出して笑うつもりなんじゃないのか?
そうして晴れて自由の身となり、いずれ他の男と‥‥
いや、もしかしたら、もう既に‥‥)

作家は堪りかねて、起き上がろうとしたが、もはや体の自由が利か
なくなっていて、指一本動かす事が出来なかった。
そうするうちにも、意識はどんどん遠のいていく。

(駄目だ! このままじゃ死ねない! 死にたくない!
‥‥‥助けてくれ!‥‥‥‥助けて‥‥‥‥‥‥‥‥ )

不安、後悔、憎しみ、恐怖、様々な思いが渦巻く中、作家は遂に事
切れ、二度と戻る事のない、永遠の眠りに就いた。


さて、その後、彼の愛人はどうなったのか?
目を覚ましたのか? 覚まさなかったのか?
それには敢えて、触れない事にしよう。

どちらにせよ、もう死んでしまった作家にとっては、同じ事だ。






              戻る