「償い」
深夜、ひと気のない狭い道の上に、一人の男が立っている。
彼の足元には、年老いた別の男が倒れている。
男はたった今、この老人を車でひき殺してしまったのだ。
老人は、その薄汚れた身なりから察するところ、ホームレ
スの様だった。
男は老人を跳ね飛ばすと、すぐに車を止め、慌てて駆け寄
り様子をうかがったが、老人の体は十メートルちかく跳ば
されて、頭から落ち、首の骨が折れていた。もはや即死の
状態である事は、一目瞭然だった。
男は呆然と立ちすくみ、目の前が真っ暗になっていた。
(ああ‥‥俺は一体、何という事をしてしまったのだろう
‥‥)
男は医者であった。
その夜、彼が自宅で寝ていると、突然かかって来た病院か
らの電話の音で、目を覚ました。
今しがた、病院に瀕死の急病人が担ぎ込まれ、至急手術が
必要なので、すぐ来て欲しいという話だった。
それを聞いて彼は、すぐさま飛び起き、寝ぼけ眼のまま車
に乗り込んで、病院へと向かっていたのである。
寝起きでまだ頭がはっきりしないうえ、一刻を争う状況だ
ったので、彼は普段より車のスピードを上げ、注意力は散
漫になっていた。
そこへ突然、脇道から老人が飛び出して来たため、気づく
のが遅れて、そのまま跳ね飛ばしてしまったのだった。
老人の死体の前に立ちすくんでいた彼の、真っ白になった
頭の中に、ふと病院で待っている瀕死の急病人の事が思い
出された。
(どうしよう‥‥このまま警察へ知らせたら、俺はもう病
院へは行けない。病人は死んでしまうかもしれない‥‥)
男は辺りを見回した。見渡す限り一台の車も、一人の人間
も、その目には映らなかった。
(この老人はもう死んでいるんだ。申し訳ないが、ここは
ひとまず病院に向かう事にしよう。通報するのは、その後
でもいい。)
男は、震える足を無理矢理動かして車に乗り込み、そのま
まそこに老人を置き去りにして、苦渋の思いで走り去って
行った。
病院に着くと、彼はすぐさま支度を整え、手術に取り掛か
った。
極めて難しい状況であったが、手術は何とか成功し、患者
は一命をとりとめた。
彼が手術室から出て来ると、廊下の長椅子に座っていた患
者の家族たちが立ち上がって、心配そうな、怯えた表情で
駆け寄って来た。
手術が無事終わり、もう心配ない事を説明すると、家族は
皆泣き出して、彼の手を取り、何度も何度も頭を下げた。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
感動的なこのやり取りは、しばし彼を心地の良い達成感に
浸らせたが、すぐにその心の中に、道に置き去りにして来
た、あの老人の事が甦って来た。
(そうだ、俺は自首しなけりゃならんのだ‥‥)
ところが、目の前で幸せそうに泣き笑いしている患者の家
族の顔を見ているうちに、彼の心に、ある別の考えが浮か
んで来た。
(俺はこれから先もまだ、この様に幾つもの命を救えるの
だ。何人もの人を幸福に出来るのだ。だが自首してしまえ
ば、それが出来なくなってしまう。俺が刑務所に入ってい
る間にも、救える筈の命が失われていく‥‥本当にそれで
いいのか?
俺はこのままこの仕事を続け、人の命を救い続けるべきな
のではないか? ひいてはそれが、人ひとりの命を奪って
しまった罪の償いにもなるんじゃないか?)
患者の家族に笑顔で応え、手を握り肩を抱きながら、彼は
自分の心が強く固まっていくのを感じていた。
結局、彼は自首しなかった。
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