「割引券」



最近、この街に新しくできた店に向かって、彼は通りを歩いていた。
手には駅前で配られていた、その店の割引券を握りしめて。
(どんな店かは知らないが、どうせただで貰った券だ。ひとつ試し
に行ってみよう。)
そんな軽い気持ちだった。
店の前には、長い行列が出来ていた。
(みんなこの券を貰ったクチだな。)
彼はとても、その列に並んでまで待つ気にはなれなかったので、諦
めて帰ることにした。

翌日彼は、大きな橋の上から街を見下ろしながら、物思いに耽って
いた。最近はそれが、彼の日課になっていた。
何気なくポケットに手を突っ込むと、昨日貰った割引券がまだそこ
にあった。すると彼はまた、その店のことが気になってきたので、
再び足を運んでみることにした。

店の前には、昨日と同じ様に長蛇の列が出来ていた。それを見た彼
は、チッと小さく舌打ちをして、軽く腹立たしさを覚えながら引き
返して行った。
それからというもの、彼の頭からは、何故かその店のことが離れな
くなってしまった。

彼はだんだん意地になって、その後も毎日の様に足を運んでみたが、
店の前の行列は、いつまでたってもなくなる気配はなかった。
そしてとうとうある日、いつまでもなくならない行列にしびれを切
らせて、渋々その一番後ろに並んだ。
列は一向に前へは進まず、何時間待っても店の入り口は近づいて来
なかった。その一方で背後には、いつの間にかたくさんの人が並ん
で、最後尾が見えないくらいになっていた。

(どうして俺は、こんな所にいるんだろう?)

いつまでも動かぬ行列の中で、ふと彼にそんな考えが浮かんだ。す
ると心の中に、何か黒い霧の様なものが立ち込めてきているのに気
づいた。
この黒い霧は、いつ生まれたんだろう?列に並び始めた時か?それ
とも割引券を手に入れた時か?いや、それよりずっと前、自分でも
思い出せないくらいずっと前から、心の中に潜んでいたのかもしれ
ない‥‥

(どうして俺は、こんな所にいるんだろう?)

彼は自問を繰り返した。
行列は少しずつ前へ進み始め、店の入り口は少しずつ近づいて来た。
それでも彼の心には、ひとかけらの期待感も生まれず、ただあの霧
が一層深く立ち込め、同じ自問だけが何度も浮かんで来るのだった。

(どうして俺は、こんな所にいるんだろう?)

陽が暮れ始め、店の入り口がもうすぐ間近まで迫った頃のことだ。
何を思ったのか、彼は突然ふらっと列を抜け出して、通りへと飛び
出して行ってしまった。
そのままふらふらと当てもなくさまよい歩き、気がつくと、いつも
の街を見下ろす大きな橋の上で、手すりにもたれながら、沈みゆく
陽を眺めていた。

ふと彼は、ポケットに突っ込んだ手の中に、まだ割引券を握りしめ
ているのに気づき、おもむろにそれを取り出した。そして、びりび
りといくつにも引きちぎって、目の前の夕陽に向かって力一杯投げ
つけた。割引券は風に吹かれて、夕陽の中でぱっと広がり、そのま
ま散り散りにゆっくりと、橋の下に広がる街へと舞い降りていった。
彼はその様子を、飽きることなくじっと眺め続けた。

すると、心の中を覆っていたあの黒い霧が、跡形もなく消え去り、
まるで嘘の様に澄み渡っていった。
そんな心の変貌ぶりに彼は驚き、自分で自分に呆れてしまった。
人の心というものは、ほんの他愛ないことで、こんなにも変わって
しまうものなのか?

(人生が変わるきっかけなんて、何処に転がっているか、判ったも
のじゃないな‥‥)

そんなことを考えながら、彼は橋の向こうに広がる見慣れた街を、
まるで生まれて初めて訪れた、見知らぬ街の様に、大きく目を見開
いたり細めたりしながら、いつまでも飽きる事なく眺めていた。

そして、かねて漠然と心にあった、死への思いをしまい込んで、も
う少し生きてみようと決めた。






              戻る