「予感」



冬の夜、僕はすっかり動転して、最終電車に揺られていた。乗客は
疎らで、あちこち座席は空いていたが、鼻先がつくほど窓ガラスに
顔を近づけ、扉のすぐ前に立っていた。
今日電車に乗るのは、これで四度目だ。朝、仕事へ行く時。仕事を
終え、そのまま恋人の住むアパートへ向かう時。そこから自宅へ帰
る時。そして今、再び恋人のアパートへと向かっている。

何故今また、恋人の元へ向かうのか?それは頭にこびりついて離れ
ない、ある不吉な予感のためだった。その予感に怯えながら、僕は
電車のガラス越しに彼女の顔を思い浮かべ、今日彼女の部屋を訪れ
た時のことを、ひとつひとつ思い出した。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

「いやよ!もう行きたくない!」
ベッドの布団の中から、熱で火照った顔を半分だけ覗かせて、アキ
は苛立った様子でそう言った。
「行ったって同じよ、何も変わらないわ。」

インフルエンザと診断されてからもう二週間近く、アキはこの部屋
で寝込んでいる。病院でもらった薬は、効いているのかいないのか、
容態は一向に良くなる気配を見せず、むしろ悪化している様にすら
思えた。
四十度近い高熱が続き、食事もろくに取れず、下痢と嘔吐を繰り返
すうちに、すっかり彼女は衰弱しきっていた。
僕は毎日、仕事を終えてから、彼女を見舞って通い詰めていたのだ
が、身も心も疲れ果て、塞ぎ込んでいくその姿は見るに堪え難く、
いたたまれない思いだった。
本当にインフルエンザなんだろうか?そんな疑念が僕の中で、次第
に大きく膨らんできていた。

「つらいだろうけど‥‥やっぱりもう一度病院に行った方がいいよ。
同じ所がいやなら、違う病院に行こう。」
「いやだったら!」
嫌がる彼女をなだめ、何とか説き伏せようとする僕に、アキは不満
を爆発させて叫んだ。

「そんな分からないことを言うんだったら、もう来ないからね。」
あまり聞き分けがないので、少し腹を立てて僕がそう言うと、アキ
は途端に悲しい顔をして、ぷいと横を向いた。寝汗に濡れてべった
りと髪の張りついた横顔がぶるぶると震え出し、目から大粒の涙が
溢れた。
僕の胸は、えぐられる様に激しく傷んだ。病魔に犯され、これほど
苦しんでいる恋人に、何の救いの手も差し延べられず、それどころ
か、その苦しみに追い打ちをかける様に、冷たい言葉をかけてしま
った自分を責めた。

「ごめん‥‥俺が悪かった。そんなにいやなら、もう言わないよ。
でも‥‥もし今より少しでも悪くなったら、その時は俺の言うこと
を聞いて、絶対に無理しちゃ駄目だよ。それだけは約束して。」
僕がそう言うと、彼女は一層激しく肩を震わせて泣きじゃくった。

「うん、分かった。わがままばかり言ってごめんなさい。」
ようやく泣き止み、こちらを向き直ってそう言うと、アキは今出来
る精一杯の笑顔を作って、僕に笑いかけてみせた。その健気な姿が、
僕の胸を一層締め付け、涙で目が潤んで、彼女の顔がぼやけて見え
なくなった。

「もう帰っていいよ。私は大丈夫だから。明日も仕事でしょう?私
のことばかり構ってたら、あなたまで病気になっちゃうよ。」
僕を元気づけようと、アキはそう言って笑った。もう夜も更け、部
屋の中は静かで、ただ時計の音だけが聞こえていた。

「分かった。何かあったらいつでも電話して。すぐに来るから。」
「ありがとう。」

彼女を一人部屋に残して、僕は重い足を引きずる様にして家路につ
いた。最寄りの駅まで真っ直ぐに続く、川沿いの長い土手道を歩き
ながら、アキの顔を思い浮かべると、涙が止めどなく溢れ出てきて、
人目もはばからずめそめそと泣いた。自分の無力さが身に染みて、
冬の夜の川沿いの道は、なお一層寒かった。

家に戻ってから軽く夕食を済ませると、後は何をする気にもなれず、
僕は着替えもせずに寝床に潜り込んだ。酷く疲れていたので、あっ
という間に眠りに落ちたが、悪夢にうなされ、すぐに飛び起きてし
まった。
それがどんな夢だったのか、はっきりとは思い出せなかったが、何
となく不安になって、アキに電話を掛けてみた。だがいくら呼び出
しても、彼女は電話に出なかった。寝ているんだろうと思い、諦め
てまた寝直そうと横になったが、何故か夢のことが気になって、ど
うしても眠れなかった。それで、しばらくしてからもう一度、電話
を掛けてみた。やはり彼女は出なかった。

ふと何か、嫌な予感がしたのは、その時だ。

馬鹿らしい、ただの思い過ごしだ、どんなに自分にそう言い聞かせ
ても、その予感は消えず、かえってだんだん大きくなっていく気が
した。僕はもう、居ても立ってもいられなくなって、気がつくと家
を飛び出し、駅へ向かって駆け出していた。
終電に間に合うだろうか、タクシーで行った方が早いだろうかなど
と、走りながら頭の中で、あれこれと様々な考えが駆け巡った。
駅にたどり着き、急いで改札をくぐりホームを駆け抜けると、今出
ようとしている終電にどうにか間に合って、僕は今日四度目の電車
に飛び乗った。駅は、昼間の喧騒が嘘の様に人も消え、寂しいくら
いに静かだった。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

電車の中で回想に耽っていた僕は、ふと窓ガラスに映る自分の顔と
目が合った。車内の薄明かりが不自然な陰影を作り出し、それは自
分のものとも思えぬ、見知らぬ人の顔だった。
どういう訳か僕は、どうしてもその見知らぬ顔から眼をそらすこと
が出来なくなり、吸い込まれる様に見入ったまま固まってしまった。
その顔は不気味な笑みを浮かべ、僕にこう囁きかけていた。

「無駄だ。手遅れだ。お前の恋人は、もう終わりだ。」

僕はその恐ろしい幻影を払い除けようと懸命にあがき、ようやく窓
に背を向け扉に寄り掛かって、大きくひとつ息を吐いた。そして、
もう二度とあの顔と向き合うまいと目を閉じた。

永遠の様に長い時間の後、ようやく駅に着くと、僕は弾き出される
様に電車から飛び降りて、川沿いの土手道を力の限り走った。しか
し、冷たい向かい風が壁となって行く手を阻み、その足取りはすぐ
に鈍り始め、焦れば焦るほどなかなか前へ進まず、僕の足は次第に
鉛の様に重くなっていった。
そして、道の半ば辺りに差し掛かった所でとうとう息が切れ、よろ
よろと立ち止まってしまった時、行く手の遥か先の方から、サイレ
ンの音が風に乗って聞こえて来た。
目の前が真っ暗になった。予感が刻一刻と、現実に向かって動いて
いる気がした。絶望的な気持ちになりながら、それでも僕は何かに
押される様におぼつかない足取りで、よろよろと前へ歩みを進めた。

ようやく彼女のアパートの前まで辿り着いた時にはもう、立ってい
るのがやっとで、心臓が音を立てて激しく脈を打っていた。背中を
丸め膝に手をついて体を支えながら、僕は耳を澄まして中の様子を
うかがった。何も聞こえなかった。さっきまでしていたサイレンの
音も、いつの間にか消えていた。

この期に及んで僕は、中に入るのが怖くなった。予感は今や、僕を
鷲掴みにして、どこか遠い地の果てまで連れ去ろうとしているかの
様だった。
それでも何かに操られる様に、合鍵を差し込みドアを開け、ゆっく
りと中へ入っていった。頭の中は真っ白で、もはや僕は予感の奴隷
となって、何も考えることが出来なかった。
家の中は真っ暗で、しんと静まり返っていた。明かりを点けること
も忘れ、玄関から手探りでキッチンを抜け、突き当たりにある部屋
の扉をそっと開いた。暗闇の中、ベッドの上に、布団をかぶって横
たわっている人影がぼんやりと見える。
僕の頬を、一筋の冷たい汗がつたって落ちた。心臓が脈を打つ音と、
部屋の時計の音だけが、異様に大きく耳に響いていた。

「アキ‥‥」
部屋の入口に突っ立ったまま、ぼくは彼女に声をかけた。自分でも
驚くほどか細いしわがれた、弱々しい声だった。アキは向こうを向
いたまま、ぴくりとも動かなかった。息をしているのかどうかさえ
解らない。僕はもう一度、ごくりとひとつ唾を呑み込んでから、今
度は部屋中に響き渡る大きな声で呼んだ。

「アキ!」

びくんと肩を震わせ、少し間をおいてからこちらを振り向き、驚い
た様に大きく目を見開いて、アキは僕を見た。そして、怯えた表情
を浮かべて言った。

「どうしたの?」

後にも先にも、僕の人生の中でこの瞬間ほど、「神」と呼ばれるも
のの存在を信じたことはない。アキは生きていた。死んではいなか
った。それは、あの恐ろしい予感から解放された、まさにその瞬間
だった。
全身から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのをどうにかこら
えながら、僕は心の底から湧き上がって来る、暖かい感情に身を委
ねた。まるで時間が止まったかの様だった。
今、自分の中にあらん限りの優しさを込めて、僕はアキに微笑んで
みせた。

「いやなに‥‥たいした事じゃないんだけど‥‥」

部屋の中は暗く、闇に浮かぶアキの顔は仮面の様に青白かったが、
その時僕は間違いなく幸せだった。






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