第十三章 最後の希望



手記を読み終えると、サトルは顔を上げ、放心した様に宙
を見つめた。

「俺は能無しだ。」
不意に彼は、口を開いた。
背後のベッドには、いつの間にかあの老人が座っている。

「どんなに憎んでも、もうこの男は、何処にもいない‥‥
俺の憎悪の行き場は、何処にもないんだ‥‥
この苦しみから逃れる道は、ただひとつ‥‥俺自身がこの
男と、同化するしかない。
殺される側の苦しみから逃れるには、殺す側にまわるしか
ない‥‥」
ここまで言うと、サトルは老人の反応をうかかう様に言葉
を切った。
老人は、何も答えずに、じっと彼を見ている。

サトルがまた話し始めた。
「俺は、この世界を愛せないし、自分の事も愛せない‥‥
俺には、この男の気持ちがよく解る‥‥俺もこの男と、同
類なんだ‥‥だから、俺にはもう‥‥この男と同じ道しか
残ってないんだ‥‥それが俺の、運命なんだ‥‥」

「いや、違う。」
ここで初めて老人が、サトルの言葉を遮る様に口を開いた。
それはいつになく、厳しい口調だった。

「君の運命は、その男と同じじゃない。君は、人を殺せる
人間じゃない。」
老人に話を遮られて、サトルは口をつぐんだ。

「もう一度行くんだ。あの子の所へ。」
再び老人が、話し始めた。
「君を救ってくれるのは、あの子しかいない。
君が話さない事まで、あの子はちゃんと解ってくれていた
じゃないか。」

サトルは何も答えず、正面の壁を、じっと見つめていた。

「君が何を恐れているか、よく解るよ。」
老人は、やや穏やかな口調になって、話し続けた。
「死んだ恋人の事を、考えているんだね?」
「俺は‥‥忘れようとしたんだ‥‥チエの事を‥‥でも、
駄目だった‥‥忘れるなんて、とても出来ない‥‥」
サトルは、机の上に顔を伏せ、苦しそうに体を震わせた。

「いいんだよ、忘れなくて!」
またもや老人が、語気を強めて言った。
「あの子に救いを求めても、それは決して恋人を裏切る事
にはならないさ。よく考えてみるんだ。これが君とって、
最後の希望なんだぞ!」

サトルは長い時間、老人の言った事について考えていた。
夜は更け、気がつくといつの間にか、老人の姿は消えてい
た。

それから一週間の間、サトルは悩み続けた。
コートのポケットから、ミユに貰ったチェーンのネックレ
スを取り出しては、それをじっと眺めた。
(あの爺さんの言う通りかもしれない‥‥)

彼の心が、少しずつ動き始めていた。

そしてある夜、遂に彼は覚悟を決め、もう一度ミユに会い
に行く決心をした。
風のない、穏やかな夜だった。





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