(2)


サトルは、ポケットからナイフを取り出し、それを大きく、
獲物の頭上に振りかざした。

そして、その手を、渾身の力で振り下ろした。

‥‥‥‥‥‥‥‥

いや、そうはならなかった。

彼は、ナイフを振りかざしたまま、呆然と立ち尽くして、
苦しそうに激しく息を荒げていた。
動悸も、息苦しさも克服したのに、迷いや恐怖心にも、打
ち勝った筈なのに、それでもまだ何かが、彼の左手を振り
下ろす事を許さなかったのだ。

ただならぬ気配に気づいた女が、後ろを振り返り、恐ろし
い形相で立っているサトルと目を合わせ、凄まじい悲鳴を
上げて逃げて行った。
サトルはもう、追いかける事も出来なかった。
彼の精神力はもう、限界に近づいていて、どうにか意識を
保って、立っているのがやっとの状態だった。

彼は、自意識を制御する事が出来なくなった。
頭の中でめまぐるしく、様々な言葉が交錯する‥‥

(俺は能無しだ。俺には人は殺せない‥‥‥‥君は無理矢
理、希望を拒んでるんだ‥‥‥‥綺麗な目をしている‥‥
‥また来てくれる?‥‥‥‥運命は、変えられない‥‥‥
‥もう一度行くんだ、あの子の所へ‥‥‥‥あの子ならも
う、辞めましたよ‥‥‥‥あの子‥‥死んだのよ‥‥‥‥
‥俺のせいだ!‥‥俺が殺したんだ!‥‥‥‥あなたのせ
いじゃないわ!‥‥‥‥俺はもう、彼女には会えない‥‥)

‥‥‥‥‥‥‥‥

サトルは震える手で、ゆっくりとナイフを首筋に当てた。
(俺は負けた‥‥この世界にも‥‥俺自身にも‥‥俺は、
最低の負け犬だ‥‥)

一分ほど、その姿勢のまま立っていたであろうか、やがて
彼は、静かに目を閉じた。
それからまた少し間があいて、ようやく心が決まった。

(済まない‥‥)

誰に対してか、何に対してか解らないが、最後に頭に浮か
んだこの言葉と共に、サトルはナイフを握る手に、残る全
ての力を込めて、おのれの首を掻き切った。

‥‥‥‥‥‥‥‥

一体何が、起こったのだろう?
確かにたった今、自分の首を掻き切った筈なのに、サトル
は死んでいなかった。
相変わらず、先程までと同じ通りの真ん中に立っていた。

(何故だ?)
サトルは、半ば放心状態で、汗でかすむ目を凝らして、ナ
イフを見た。
そこには、信じられない事が起きていた。
どうしてそうなったのか解らないが、ナイフの刃の周りに、
ミユから貰った、チェーンのネックレスが、ぐるぐる巻き
に絡み付いていたのである。

まるでその凶器から、サトルの首を守るかの様に。

サトルの心は何か、訳の解らぬ悔しさで一杯になり、涙が
止めどなく流れ出た。
ちくしょう、ちくしょうと叫びながら、必死にナイフから
ネックレスを引き離そうとしたが、どうしても外す事が出
来ず、手に傷だけを作った。

この時にはもう、往来は騒然となっていて、遠くの方から
は、サイレンの音も聞こえて来ていた。

とうとうサトルは精根尽き果て、ナイフを持っている力さ
えなくなり、だらんと垂れ下げた手の先から、ぽとりと地
面に滑り落とした。
彼はもう、何も考えられなかった。
ただ、かすむ目の隅にぼんやりと、大声で何か叫びながら
走って来る、警官の姿が映ったような気がした。

最後の抵抗のつもりであろうか、薄れゆく意識の中で、二
三歩よろよろと足を進めたところで、とうとう力尽き、そ
のままサトルは前のめりに、駆け付けた警官が伸ばした手
を擦り抜ける様にして倒れた。

周りの喧騒はもう、彼の耳には届かなかった。





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