第十六章 決行

(1)


灰色の雲が立ち込める、肌寒い朝。
まだ、人通りの少ない往来。
そこに、サトルの姿があった。

彼は、街角のビルの壁に、寄りかかる様にして立ち、往来
を行く人たちを眺めていた。
顔からは、完全に生気が失せて、まるで仮面をつけた様に
真っ白だった。

薄笑いを浮かべながら、ふらふらと泳いでいた眼差しが、
不意に一つの人影に定まり、じっと追いかけ始めた。
それは、六十代ぐらいの、背の低い痩せた女性だった。
サトルの口元から、薄笑いが消えた。
彼はこの女性を、獲物に決めた。

サトルは、ゆっくりと歩き出して、十数メートルほどの間
隔をあけて、獲物の後を追った。

それから徐々に足を早め、少しずつ獲物との間隔を狭めて
いくと、心臓の鼓動が激しくなり、額から汗が流れ始めた。

そして、獲物のすぐ背後まで近づくと、急に呼吸が苦しく
なり、先程までの冷静さが嘘の様に、激しく心が乱れた。
彼は堪らず足を止め、獲物はどんどん遠ざかって行った。

(駄目だ、失敗だ。)

壁にもたれて呼吸を整え、落ち着きを取り戻すと、サトル
は気を取り直して、再び辺りを見回し、獲物を物色し始め
た。
間もなく彼は、サラリーマン風の中年の男に狙いを定めて、
ゆっくりと動き出した。

先程と同じ様に、遠くから徐々に、獲物の背後に近づいて
行くと、またもや動悸と息苦しさが襲って来た。
サトルは、何も出来ないまま歩調を緩め、そのうちに獲物
は、角を曲がって見えなくなってしまった。

サトルはくたくたに疲れて、道の脇のベンチに、倒れ込む
様に座って、頭を抱え込んだ。

(何をやってるんだ!)

彼は、怒りに震えて拳を握りしめた。
背中は、汗でびっしょり濡れていた。

そのまま彼は、廃人の様に呆然として、ベンチに座り込ん
だままでいた。
その間に時間が過ぎて、人通りは、少しずつ増えていった。

ふと彼の目に、新しい獲物の姿が飛び込んで来た。
それは、ミユやチエと同じぐらいの年格好の、若い女だっ
た。
サトルの目に再び、不気味な光が甦って来た。

(今度は絶対しくじらない。必ず仕留める。)

サトルは、ゆっくりと立ち上がった。

彼はまた、獲物の尾行を始めた。
その背後に近づくにつれ、またしても動悸と息苦しさが襲
って来たが、今度は彼の精神力が、それを抑え込んだ。

一歩、また一歩と、獲物との間隔が、確実に狭まっていく。

ゆっくりと彼は、左手をポケットに突っ込み、汗で濡れた
震える手でその中をまさぐり、ナイフを見つけると、力一
杯握りしめた。
今や彼は、獲物の背後にぴったりと着いていた。

その時は、来た。





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