第五章 屈辱

(1)


数日後、サトルは電車に乗って、隣の街を訪れた。
何か、特別な用事があった訳ではない。

普段の彼は、外食に出掛ける以外は一日、自宅の中で過ご
し、外食も付近の店で済ませるので、街の外へ出る事は、
殆どなかったのだが、そんな自閉的な生活が長く続いて、
心の虚ろが巨大に膨らみ、その苦痛に耐え切れなくなると、
こうして隣街まで出掛けて行って、気を紛らしていたので
ある。
彼の住んでいる街は、小さな繁華街がひとつあるきりの、
狭い街なのだが、隣街はその何倍も開けていて、年中大勢
の人で賑わっていた。

それに彼はこの隣街に、ふたつの思い出を持っていた。
ひとつは甘い、美しい思い出と、もうひとつは忌まわしい
思い出を。

彼はそのどちらの思い出も、自分の心の中から追い出そう
と、必死に努めていたが、どうしてもそれを果たせずにい
た。
そして気が付くと、その思い出を取り戻そうとでもするか
の様に、こうしてこの街へ舞い戻って来てしまうのだった。

サトルは、その思い出のひとつひとつを辿る様にして、街
じゅうを歩き回って一日を潰した。
そして日が暮れ始めた頃には、また電車に乗って、家路に
着いたのである。

その帰りの電車の中で、ちょっとした事件が起きた。

車内は人も疎らで、それほど混んではいなかった。
サトルは、扉の脇に立っていた。
次の駅で大学生風の、二人連れの男が乗り込んで来た。
二人は明らかに酒に酔っていて、サトルのすぐ横で大声で
話し始め、更に大きな笑い声を上げていた。
サトルは、その騒がしさに我慢が出来なくなって、隣の車
両に移動しようと歩き出した。
その時、男の一人と肩がぶつかった。
男は、サトルを睨みつけた。





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