(2)


父親が大好きな子供だった。姉と妹は、どちらかというと
母親の雪枝の方になついていたが、夏子だけは逆だった。
いつも父の後を追いかけ、ちょこちょことついて回ってい
た。

父と母の仲はとても悪かった。家の中ではいつも口喧嘩が
絶えなかった。そのうちにだんだん、お互いを避けて言葉
も交わさず顔も会わせないようになり、父の仕事からの帰
りも次第に遅くなっていった。

そして夏子が十歳の時、父は外に女を作って家を出て行っ
た。

突然の父の喪失は夏子にとって、大きな衝撃と深い悲しみ
だった。
夏子は、父が出て行った理由を全部雪枝のせいにした。自
分から父を奪った雪枝が許せなかった。
それから夏子は、父が乗り移ったかのように、事あるごと
に雪枝と衝突した。そうすることで、悲しみに押し潰され
そうになる心をどうにか支えていたのだった。

夏子には今でも忘れられない、雪枝から掛けられた言葉が
ある。
何が原因だったかは覚えていないが、ある時二人はいつに
も増して激しく口論をしていた。いつもなら仲裁に入る秋
子も、この時ばかりは二人のあまりの剣幕に怖じ気づいて、
口を挟むことが出来ずにいた。
殺伐とした罵り合いの末に、雪枝は吐き捨てるように言っ
た。

「あんたなんか産まなきゃよかった!」

胸をえぐられる思いだった。この時の雪枝の声の響きは、
今でもはっきりと、手に取るように思い出すことが出来た。
この時から夏子は、自分という存在に明確な自信が持てな
くなってしまった。
自分が生まれて来たのは間違いだった、生まれて来るべき
ではなかった、そう思うと夏子は、生きていることに後ろ
めたさを感じるようになった。

夏子が中学三年生の時、姉の秋子は地元の男性と結婚して、
実家から程近い夫の家に移り住み、すぐに楓を産んだ。楓
の誕生は、夏子にとってもささやかな幸福だったが、生き
ることへの後ろめたさは消えず、むしろ少しずつ膨らんで
いく気がした。

そして高校を卒業するとすぐに、夏子は家を飛び出し上京
した。
秋子は何とか考え直せないかと説得し、中学生の春子は行
かないでと泣いて懇願したが、夏子の気持ちが変わること
はなかった。
雪枝は引き留めようとはせず、夏子のするがままに任せた。

その後今日までの間、夏子が再びここへ帰って来ることは
一度もなかった。






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