(6)


お互い見つめ合ったまま、どのくらい時間が過ぎただろうか?
僕は堪らず口を開いた。
「僕には判らない‥‥君は‥‥どうして君はそんな考えで、平気で
いられるんだ? ‥‥君は一体、何を頼りに生きているんだ?」

するとSは、先程までの傲慢な調子とは打って変わって、消え入り
そうな弱々しい声で、こう呟いた。
「‥‥幸福を分け与えるとは、不幸を分け受けるという事だ。不幸
になる覚悟がなければ、人を幸福にする事は出来ない‥‥」

彼の口から洩れ出たこの意外な言葉に、何故だか僕は彼に対して、
意地の悪い侮蔑の感情がこみ上げて来て、皮肉を込めてこう言った。
「君からそんな立派な言葉が聞けるとは思わなかったよ。人のため
には、何もしようとしない君の口から。」

「僕が何も感じていないと思うのか?」

Sのこの言葉の響きに、僕は思わずはっとした。Sはなおも話し続
けた。
「現実の世界では、悲惨な出来事は、次から次へと絶え間なく生ま
れる。だから人は、いい加減な所でそうしたものから目を逸らして、
頭から追い出さなくちゃいけないんだ。さもなきゃ人は、あっとい
う間にそうしたものに呑み込まれて、押し潰されてしまう‥‥
だけど僕には‥‥どうやらその能力が欠けているらしい‥‥」

この時、Sの顔が初めて、愁いを帯びた悲しげなものに見えた。
その目は自分自身を嘲っている様にも、目の前にいる僕を憐れんで
いる様にも思えた。

「世の中には目に見える不幸と、目に見えない不幸がある。人間は
ひとつの物事を、ある一面からしか見る事が出来ない。表と裏の両
側を、同時に見る事は出来ない‥‥」
まるでうわごとの様に、僕にではなく自分自身に言い聞かせる様に、
彼は話し続けていた。

「人はあるところまで生きて、あるところで死ぬ。そこには何の意
味もない。たまたまそうなるだけだ。僕も今まで、たまたま死なず
に来て、ここに存在しているだけなんだ。それを思えば人の言う幸
福や不幸なんて、実にちっぽけな事だ。人が最も真剣に考えなけれ
ばならないのは、そんな事じゃない。
人はみんな、いつか必ず死ぬ。そこから逃れる事は出来ない。絶対
に‥‥。どうしてみんなもっと真剣に、自分の死について考えよう
としないんだ?」

一瞬、僕はSの瞳の奥に、まるで死人のそれを思わせる様な闇があ
るのを感じて、背筋が寒くなった。
そしてふと、彼が子供の頃に誘拐され、殺されかけたという、あの
噂が脳裏をよぎった。

ちょうどその時である。
遠くの方から賑やかな話し声が、こちらへ近づいて来るのが聞こえ、
数人の女子生徒が、僕たちのいる中庭を通りかかった。
僕とSは夢から覚めた様に、はっと我に返って彼女たちを見た。
向こうも僕たちに気づき、しゃべるのを止め、不審そうにこちらの
方をうかがい見ながら、そそくさと小走りに通り過ぎて行った。
その後は先程までの、ぴんと張りつめた空気も何処かへ行ってしま
い、お互いもはや言葉も出なくなって、気まずい雰囲気に包まれた。

「いや、下らない話を聞かせてしまったね。まあこんな話は別に、
何でもない事だよ。忘れてくれ。」
それまでの重く冷たい印象が嘘の様に消え、Sは笑いながらそう言
った。もう彼の瞳の中のあの、死人を思わせる闇はなくなっていた。

そしてくるりと背を向け、僕をその場に残したまま、中庭から一人
立ち去って行った。
僕は言葉もなく、彼の後ろ姿をただ見つめていた。
泥に汚れた背中がゆらゆらと揺れながら、夕闇の中に溶け入る様に、
音もなく消えて行った。

僕がSと話したのは、この時が最初で最後だった。
それから数日後、Sは校舎の屋上から転落して死んだのだ。






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