第四章 橋の下の聖人

(1)


サトルが家に帰って来た時には、もうすっかり夜も更けて
いた。
彼は古いマンションの二階の、狭い部屋に一人で住んでい
た。
階段を上り、渡り廊下に出ると、そこを真っ直ぐ進んで、
一番奥の部屋の前まで歩き、鍵を開けて、彼は部屋の中へ
入って行った。
入るとすぐに狭いキッチンがあり、その奥に、同じく狭い
部屋がひとつあるだけの家だった。
サトルは暗闇の中、キッチンを抜けて、奥の部屋のドアを
開けた。
真っ暗な部屋の中から、人のいる気配がした。
窓から差し込む外の薄明かりに照らされて、ぼんやりと人
影が見える。
サトルは驚く様子もなく、壁のスイッチに手をかけ、部屋
の照明をつけた。

見ると、窓のすぐ前にあるベッドの上に、薄汚れたぼろぼ
ろの服を着た老人が座っている。
老人は、白髪だらけの縮れた髪に、同じく白髪の混じった
髭を生やし、日焼けした黒い顔をして、こちらを見ている。
口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。

サトルは無言のまま、部屋の中に入って行った。
部屋の中には、ベッドの他に古い机と、椅子と、細長い箪
笥があるきりだった。
ドアの横のハンガーにコートを掛けると、サトルはベッド
の横の椅子に腰掛けた。
ちらりと横目に老人の顔を覗き込むと、相変わらず老人は
人のよさそうな笑みを浮かべて、こちらを見ていた。

「また来てたのか。」
サトルがぼそりと呟いた。
「馬鹿な事をしたな。」
よく透る、老人の低い声が響いた。
「えっ?」
「さっきの、駅前の広場での一件だよ。」
「ああ‥‥どうって事ないさ、あんなの。」
二人はまた、口をつぐんだ。

橋の下の聖人。
サトルは密かに心の中で、この老人にそう名付けていた。





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