(2)


家に帰るとすぐさま、寝室で寝ている妻の元へ向かった。
妻は一年前から病床の身だった。
「お帰りなさい。」
僕がベッドの傍らに座ると、妻は頭を枕につけたまま、横
を向いて微笑んだ。白くほっそりした首筋が、痛々しくも
美しかった。
「さっきね、公園に寄ってみたら、白木蓮の花が満開だっ
たよ。」
「まあ!」
妻は目を丸くして、驚いたような顔をした。
「夕べね、夢を見たの。公園の白木蓮を見に行く夢よ。夢
の中でも満開だったわ。」
「えっ、本当?」
夢と現実が重なった偶然に、僕は思わず声を上げた。
「君の好きな花だったよね?」
「ええ。」
妻は何かを思い出したように、頬をほのかにに火照らせた。
「憶えてる?白木蓮を教えてくれたのは、貴方よ。」
「えっ?」
「結婚して間もない頃。それまで私は、あの花のこと知ら
なかったのよ。」
「そうだったかな‥‥」
そう言われてみて、ようやく記憶が甦って来た。確かにそ
うだ。彼女に白木蓮を教えたのは僕だった。するとすぐさ
ま、公園で出会ったあの女の言葉が頭に浮かんだ。

(私、紫の木蓮は知ってましたけど、白い木蓮は知らなか
ったんです。それを、ある人が教えてくれたんです。)

あの女は妻の分身だったのだろうか?あの時、僕は妻の夢
の中に迷い込んだのか?そうだとしても、少しも不思議な
気がしない自分が不思議だった。
「私も見たいわ、白木蓮。」
「うん。元気になったら来年は見られるよ。」

その夜、僕は妻の布団に忍び込み、横を向いて寝ている妻
の背中から片手を伸ばして、そっと胸を抱きしめた。妻の
細身の体は驚くほど温かく柔らかかった。そして二人がま
だ結婚する前、古びた狭い部屋での貧しい暮らしから、お
互いの身を守り合うように、抱き合って寝ていた時の切な
い幸福を思い出し、その幸福が今なお変わらずここにある
のだとあらためて気づかされた。幸福は今も変わらず、こ
こにあるのだ。

明かりを消した暗い部屋に、妻の小さな寝息だけが響いて
いた。
カーテンの隙間から覗く楕円の月の光は、白木蓮の花弁の
ように白かった。






前へ          戻る