「白木蓮(ハクモクレン)」
(1)
日没間もない藍色の空に月が昇り始めている。満月に程近
い、楕円の月だった。
仕事からの帰り、僕は家の近くの小さな公園に寄り道をし
た。明かり一つない夜の公園には誰もいなかった。僕は真
っ直ぐ奥にある一本の白木蓮の木に向かった。
「やあ、満開だ。」
何日か前に見に来た時は五分咲きだったが、今は満開だ。
僕はわざわざこの木を見るために、足繁くこの公園に通っ
ていた。毎年この時期には、妻と一緒にこの花を見に来る
のを楽しみにしていた。
枝一杯に咲き揃った大振りの花が月に照らし出されて、闇
の中に仄白く浮かび上がっている。その姿は綿雪のように
も鳥の群れのようにも思われ、幻想的だった。また、寺院
や教会の装飾にも似た、何処か宗教染みた神秘的な雰囲気
も漂わせている。僕はしばし見とれながら、そうした幻想
や神秘に浸り酔いしれていた。
一人の女が公園に入って来た。女は僕から少し間隔を開け
た所で立ち止まって、白木蓮の木を見上げた。美しい顔立
ちの若い女だった。僕と女は、少し離れて並ぶような形で、
しばらくの間黙って白木蓮を眺めていた。
「綺麗ですね、白木蓮。」
不意に女が話し掛けて来た。
「ええ。」
思いもよらず声を掛けられ、僕はいささか慌て気味に答え
て、あらためて彼女の横顔を眺めた。見知らぬ女だったが、
何処かで見た顔のようでもあり、しかしそれを思い出すこ
とはどうしても出来なかった。
「お好きなんですか?白木蓮。」
女がまた話し掛けて来た。星空のように透き通った声だっ
た。
「ええ。妻も大好きな花です。」
「私、紫の木蓮は知ってましたけど、白い木蓮は知らなか
ったんです。それを、ある人が教えてくれたんです。」
女は僕の方を振り向きもせず、一心に白木蓮を見ながら話
していた。
「それで私、一目で好きになったんです。ほら、木蓮って
花が上を向いて颯爽(さっそう)と咲くでしょう?気持ち
が沈んでいる時、あの花を見ると、とても励まされるんで
す。私はなんて小さなことを、くよくよ悩んでるんだろう
って。」
「悩みがあるんですか?」
「そりゃあ生きていれば誰だって、悩みのひとつやふたつ
ぐらいはありますでしょう。貴方だってあるでしょう?」
女は僕の方に顔を向けて微笑んだ。何か心の中を透かして
見られているのではないかという気がした。
「ええ、まあ‥‥」
「私、この花に出会って人生が変わった気がするんです。」
それきり女は口を閉ざした。二人はまた無言で木を見上げ
た。
こうして見知らぬ女と並んで、闇に浮かぶ白木蓮の花を見
ていると、何か非現実的な感覚に陥って、天国か、神話の
森の中にでもさ迷い込んだような錯覚を覚えた。
ふと我に返り横を見ると、いつの間にか女の姿はなくなっ
ていた。
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