(2)


どのくらい走っただろうか。とうとうとんぼを見失って、
気がつくと小春は茂みに囲まれた、見たことのない小道に
ぽつんと一人で立っていた。
「お母さあん!」
大きな声で何度も叫んだが、答えはなかった。そのうちに
だんだん心細さに押し潰されそうになって、堪らず泣き出
してしまった。
「うわあん!」
どうしたらいいかも分からず、小春はその場に立ち尽くし
たまま、いつまでも声を枯らして泣いていた。やがて陽が
傾いて、辺りは薄暗くなって来た。
その時ふと、何処からともなく何かが漂って来るのを感じ
た。それは金木犀の匂いだった。小春はほんの少し泣くの
を堪えて、その匂いのする方へ歩き出した。

小道に沿ってしばらく歩くと、脇の茂みの中に小さな金木
犀の木があった。小春はその木の前で立ち止まり、辺りを
見回した。すると不思議なことに、金木犀の匂いはさらに
その道の先からも流れて来ているようだった。小春はその
匂いを辿って再び歩き出した。
道はだんだん広くなり、灯りの点いた人家がぽつぽつと見
えて来た。その中の一軒の軒下から、金木犀の枝が顔を覗
かせていた。小春はその枝の下に立って、背を伸ばして匂
いを嗅いだ。振り返ると、その家の前から脇に入る細い道
があった。匂いはその道の先の方からもしているようだっ
た。小春はもう泣くのも忘れて、その脇道へと入って行っ
た。

街灯一つない暗い道は、右へ左へと何度も曲がりくねって、
ようやく抜けて広い道に出ると、目の前の暗がりの中から、
大きな金木犀の木が浮かび上がって現れた。
「わあ。」
小春は思わず声を上げた。こんなに大きな金木犀の木を見
るのは初めてだった。
と、その時。
「小春!」
母の声がして、見ると少し先の方に母が立っていた。
「お母さん!」
小春は一目散に駆け出した。先程までの心細さが蘇って来
て、涙がぽろぽろ溢れて来た。母の胸に顔を埋めると、途
端に大声で泣き出した。
「うわあん!」
「心配したのよ。いったい何処に行ってたの?」
母に頭を撫でられながらそう言われると、小春は泣きなが
ら途切れ途切れに答えた。
「お姉ちゃんが連れて来てくれたの。」

この一件以来、小春は姉の死の呪縛から解き放たれたよう
に、元の明るさを取り戻した。今でも姉は傍にいる、その
確信を得たからだろうか。

月日は流れて、二十歳になった小春が小夜子の墓前に立っ
ている。その傍らには、同じくらいの年格好の青年がいる。
小春はこの青年と結婚の約束を交わしていた。
「何を考えてるの?」
あの不思議な出来事を思い出して笑みを浮かべている小春
を見て、気になる様子で青年が尋ねた。
「あのね‥‥」
小春はさも嬉しそうに話し始めた。

季節はもうすぐあの時と同じ、金木犀の匂いが漂い始める
頃を迎えようとしていた。






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