(2)


男は穴の底でまんじりともせず、ただ無駄に時間をやり過
ごしていた。

(俺は一体、どうなってしまうんだ? ここから抜け出す
事は出来るのか?)

彼はこの窮地を脱する方法を懸命に探したが、何ひとつい
い考えは思いつかなかった。
時々、頭上で何かが動く物音が聞こえて来る様な気がした
が、大声で助けを呼ぶ事も出来ず、その度に焦りと失望で
胸が張り裂けそうになった。

あの時、あと数メートル横を歩いていたら、こんな目に会
わずに済んだものを‥‥そう思えばますます、心は激しく
痛んだ。

彼は自分を襲ったこの不運を、悲劇を恨んだ。
そして、そんな彼の悲劇とは全く関係なく、何事もなく、
いつも通りに動いているのであろう全世界に対しても、同
じ怨念を抱いた。
それは息が詰まり、目の前が真っ暗になる程の激しい憎悪
だった。

彼は、全ての人を殺してやりたいと思った。世界を破壊し
尽くしたいと思った。
もしもこの悲劇から抜け出す事が出来たら、必ずそれをや
り遂げるのだと、固く心に誓った。
身動き一つ取れぬ今の彼に出来る事と言えば、ただこの憎
しみを際限なく燃やすだけしかなかったのだ。
だから彼は、この憎悪の念に全身全霊を注ぎ込み、それに
喜びさえ感じていた。

この激しい情念に没頭している間、彼はひと時、肉体の苦
痛と絶望感を忘れていられたが、やがてこうした心の状態
に疲れてしまい、一旦冷静になり始めると、今度はこうし
た怒りや憎しみに虚しさを覚え始めた。

(俺がここで何を思ったところで、何も変わりはしない。
俺の憎しみなんて、この世界にとっては実に無意味な、取
るに足らない事なんだ。)

男は自分がまるで、宙を舞う糸くずの様に重みのない、ち
っぽけな存在に思えて来て、すると無性に悲しく、切なく
なって、目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ出て来た。
彼の心は、まるで肉体の様にはっきりとした実体感を持っ
て、激しく痛んだ。
彼は体の痛みに耐えながら、心の痛みに耐え切れずに、声
にならない声を張り上げて泣いた。

どのくらい時間が過ぎたろうか、泣く事にさえも疲れ切っ
てしまった頃、ふと腕の上に何かが這う様な感触がして、
男はゆっくりとそちらの方へ目を向けてみた。
すると、彼の腕の上で一匹の小さな蜘蛛が、ごそごそとう
ごめいているのが見えた。
その様子をしばらくまじまじと眺めながら、彼はあの有名
な小説を思い出して、こいつを潰さずに助けてやれば、俺
は天国に行けるんだろうか、と考えた。

(だが、指一本動かせない今の俺には、こいつを捻り潰す
事さえままならない。こんな虫一匹生かすか殺すかの自由
さえ、今の俺にはないんだ‥‥)

腕の上を勝手気ままに動き回る蜘蛛に、憧憬と嫉妬を抱き
ながら、彼はただ虚ろな目でじっと見つめるしかなかった。






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