第三章 にせものU

(1)


ある休日の昼下がり、尾津はこの前訪れたホテルのビルの
前に立って、ユキが来るのを待っていた。
彼は気まぐれに任せて、彼女に貰った名刺に走り書きして
あった番号に電話をかけ、会う約束をしたのだ。こんな事
は初めてだった。

待ち合わせの時間より少し早く来て、暇をもてあましてい
た尾津が、何気なく目の前の横断歩道を見ると、そこには
小さな子供とその母親らしき親子連れが、信号待ちをして
立っていた。
しばらくすると後ろから、サラリーマン風の中年男がやっ
て来て、親子連れのすぐ脇を通って、赤信号が変わらぬう
ちから、疎らに行き交う車の合間を見計らって渡って行っ
た。
すると、他の信号待ちをしていた若い男女や、主婦らしき
女性など何人かが、その男につられて渡り出した。
その様子を、親子連れの小さな子供は、表情を変えずにじ
っと見つめていた。

(みんな罪人だ。)
尾津は心の中でそう呟いた。

(何の罪もない人間、などという言葉を、テレビのニュー
スや人の会話からよく耳にするが、何の罪もない人間なん
て、この世に一人もいない。
もしも将来、あの子供が物を盗んだり、人を殺したりする
人間になったら、今あの子の目の前で道を渡って行った大
人たちにも、その原因の一端はある。彼らもその未来の罪
の共犯者だ。
どんな人間も日々、知らぬうちに罪を犯しているものなの
だ。)
気づかぬうちにそんな考えに囚われて、尾津の気分は心な
らずも沈んでいった。

「ごめんなさい。」
不意に聞こえたその声に、はっとして横を見ると、いつの
間にかユキが目の前に立っていた。

「待った?」
「いや。」
「どうしたの?」
尾津の沈んだ様子を見て、ユキは心配そうに訊ねた。

「気分でも悪いの?」
「いや‥‥ちょっとめまいがしただけで‥‥」

それは本当の事だった。彼はもうだいぶ前から、いつもめ
まいを感じる様になっていた。
いや、そんな気がしていただけかもしれない。それが本当
のめまいなのか、ただの錯覚なのか、彼自身にもはっきり
とは判別出来なかった。

「でも、もう大丈夫だよ。」
尾津はにっこりと彼女に笑ってみせた。

ユキは以前ホテルで会った時とは違い、服装にもメイクに
も派手さのない、自然な感じだったが、愁いを帯びた、何
処か悲しげな瞳は以前と少しも変わらず、それが不思議に
尾津の心を落ち着かせ、先程までの沈んだ気分を幾らか和
らげてくれた。

(どうしてこの子はこんなにも、俺を引きつけるんだろう
?)
彼にはそれが何故なのか、よく判らなかった。






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