(2)


悪夢は浮かんでは消え、また浮かんでは消えた。

ある悪夢の中では彼は、暗く細い夜の道を一人歩いていた。
何の明かりもない筈なのに、車のヘッドライトに照らされ
た様に、行く手の数メートルぐらい先までが明るく見えて
いた。
歩きながら彼は、明かりの外の闇の何処からか、暗殺者が
飛び出して来て、彼に襲いかかると予感していた。
それは想像というより、確信に近かった。
そうなる事が判っていても、何故か彼の足は止まらなかっ
た。
彼はただ、前へ進むしかなかった。
歩く速度は徐々に早くなり、まるでビデオの早送りの様な
スピードになっていった。
そして突然、目の前に何かが飛び出して来て、逃げる間も
なく彼に襲いかかった。
明かりが消え、視界は真っ暗になった。

別の悪夢では、彼は布張りのスーツケースの中に閉じ込め
られていた。
その周りには、蜘蛛やムカデやサソリなどの虫が無数に群
がって、スーツケースにびっしりと張り付き、異様な音を
立ててうごめいている。
体を折り曲げた窮屈な姿勢のまま彼は、布一枚隔てて這い
ずり回る毒虫の音を聞きながら、いつか布が食い破られる
のを、ただじっと待っていた。
そしてとうとう、こめかみ辺りの布が裂ける音がして、虫
のうごめきがひと際大きく聞こえた。

また別の悪夢では、彼は大きな岩山の前に立っていた。
岩山は、低く響く声で彼に言った。
「お前の願い事をひとつだけ叶えてやる。願い事を言って
みろ。」

この思いがけない言葉を、彼は心から喜んだ。
(よかった。これで俺は救われる!)

だが願い事を言おうとして、彼ははっと息を呑んだ。
今の今まで自分が何を望んでいたのか、まるきり思い出せ
なかったのだ。

「どうした? 早く言ってみろ。」
いつまでももごもごとして、何も言わずにいる彼にしびれ
を切らせて、岩山は怒った様に言った。
彼は焦ったが、どうしても願い事を思い出せなかった。

「何もないのだな。ではもういい。これで終わりだ。」
岩山は最後にそう言って、彼の目の前から煙の様に消えて
いった。
次の瞬間、雷鳴と地響きが同時に起こり、彼の足元の大地
が大きく揺らいで、ばらばらに崩れ出した。
男は絶叫を上げながら落ちていった。

その後も悪夢は、次から次へと断続的に、延々と続いてい
った。
それは彼の人生で、最も過酷な一夜だった。






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