(2)


気の弱い子供だった。
幼稚園では、他の子供におもちゃを横取りされても、文句
ひとつ言えず、黙って部屋の隅に行って一人で遊んでいた。

小学生になっても内気な性格は治らず、仲のいい友だちも
殆ど出来なかった。
あまりにおとなしくて、クラスの中でもその存在が目立た
なかったため、却っていじめられる事もなかった。
多分、いじめの対象にも値しないと思われていたのだろう。

ある日の給食の時間の事である。
彼はうっかり、チーズを包んでいるビニールのチューブの
両端に付いていた小さな留め金具のひとつを、誤って呑み
込んでしまった。
それを知ったクラスメートは皆、「そのまま放っておいた
ら死んじゃうぞ!」などと、面白がってはやし立てた。
彼はそれを真に受けて恐ろしくなり、学校を早退して、青
い顔をして家に飛んで帰り、母親にその事を告げた。

ところが母親は、そんなの放っておいたって、どうって事
ないわよと言って、彼の深刻な悩みをあっさりと笑い飛ば
してしまった。
その夜、仕事から帰って来た父親にも泣きついてみたが、
そんな事でいちいち大騒ぎするなと言って、やはり取り合
ってくれなかった。

彼は、両親から受けたこの冷やかな仕打ちに愕然とし、金
具を呑み込んだ事以上に大きなショックを受けた。
確かに後から考えてみれば、両親の方が正しく、彼の方が
心配のし過ぎだったのかもしれないが、それでもこの時の
彼には、息子の切実な不安をいともたやすく一蹴するその
態度が信じられなかった。

そしてこの時彼の心に、親とは当てにならないものだ、た
とえ親でもいざとなれば、子供の命を守ってくれるとは限
らない、だから自分はいつ死ぬか判らない、今はたまたま
生きているが、いつ死んでも不思議ではない、明日にでも
死ぬかもしれないのだ、という不安が芽生え始め、それま
で、自分を取り巻く世界とは全く無縁だと思い込んでいた
「死」という概念が、突如彼の目の前に、その圧倒的な存
在感をもって立ち塞がったのである。

人間を「死」から守ってくれるものなど何もない、人間は
「死」に対して、これ程までに無防備なものなのだという
現実が、まるで広い砂漠か大海の上に、一人ぽつんと置き
去りにされた様な、孤独と恐怖がないまぜになった、それ
まで経験した事がない感覚を、彼に呼び覚まさせた。

この感覚はその後、生涯消える事無く彼につきまとう定め
となる。
彼はその年齢にしてもう既に、絶えず「死」の不安を意識
しながら生きる宿命を背負い込んでしまったのだ。






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