(4)


その時彼は、ほんの些細な事が原因で、母親から小言を貰
う破目になっていた。
それぐらいなら別に、珍しい事でもなかったのだが、この
時の母親は、虫の居所が悪かったのか、いつまで経っても
彼を許そうとせず、延々と執拗に責め続けていた。

すると突然、それが引き金となって、彼の心に溜まりに溜
まっていた不満や怒りが、たがが外れて一気に爆発した。

彼は生まれて初めて、母親に対して乱暴な言葉で怒鳴りつ
け、掴み掛らんばかりの勢いで詰め寄った。
花瓶や置物など、目に入るものを手当たり次第に掴んでは、
壁や床に投げつけ叩き壊した。

まるで気が狂った様なその凄まじい剣幕に、母親はすっか
り肝を潰してしまい、へなへなと腰を抜かしてその場に座
り込み、声を震わせ泣き出して、彼の足元に土下座をする
様にひれ伏して謝り始めた。

この瞬間、彼の胸に衝撃が走った。
それまでの人生の中でも最悪の、やり切れない程の不快感
が彼を押し潰した。

その一つは、母親に対する怒りだった。
自分の子供の前で、こんなにも惨めな醜態をさらすとは!
彼にはそれが許せなかった。
親であるなら子供に対して、嘘でもいいからもっと堂々と
威厳を保っていて欲しかったのだ。
彼が以前から抱いていた、親や大人に対する幻滅が、この
時決定的なものとなった。

そしてもう一つは、自分に対する怒りだった。
親にこんな醜態をさらさせてしまった自分に、彼は母親に
対する以上に強い怒りを覚えた。
何故あんなにも感情を爆発させてしまったんだ?と激しく
後悔した。もうこんな嫌な思いは、二度としたくないと。

この出来事以降、彼は二度と親にも、世間にも、そして自
分の運命にも逆らうまいと固く誓った。

表向きは柔和で穏やかな人間を装い、その裏では暗く醜悪
な本性を、硬い殻に閉じ込めたまま生きていく、その覚悟
を決めたのである。

こうして、彼の青春時代は過ぎて行った。

その後、彼は高校を卒業し、小さな会社に就職して、ごく
平凡な大人へとなっていった。
これから先もずっと、何か取り立ててよい出来事など、自
分の身に起こりはしないだろう、そう信じて疑わずにいた
彼の人生に、やがて思いもよらぬ変化が訪れる事になる。

それは、ある一人の女との出会いだった。






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