第八章 青い月W

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穴の底の男の回想は、陰うつな青春時代から、人生の転機
となったある女との出会いへと移っていった。

男がその女と出会ったのは、彼が仕事帰りによく立ち寄る
小さな飲み屋で、彼女はそこで働いている店員だった。
店にはいつも殆ど客がおらず、男が一人テーブルで酒を飲
んでいると、いつしか彼女が横に座って、彼の相手をする
様になった。
二人とも口数が少なく、あまり話は弾まなかったが、それ
でも彼女のいつも微笑んでいる様に優しげな、それでいて
何処となく物悲しげな雰囲気が、男には不思議と心地良か
った。

そのうち、二人は休みの日に外で会う様になり、だんだん
打ち解けていった。

男がほんの二言三言、胸の内を明かしただけで、彼女はそ
の先の先まで見透かし、理解してくれた。
これは彼にとって、全く驚くべき事だった。
今までそんな風に彼を見てくれ、共感してくれる人間は、
彼の周りにはただの一人もいなかったからだ。

また彼は、彼女が自分と似た人間であるとも感じていた。
それは、彼女が話す言葉の端々から、彼女が示す仕草や表
情の一つ一つからにじみ出て来る、同じ境遇の者同士にし
か判らない、目に見えない霊気の様なものだった。

これほど自分に近いと感じる人間が、突如目の前に現れた
事が、彼にはにわかには信じられなくて、ひょっとしたら
これは夢じゃないのか、と疑うほどだった。

自分はこの世に一人だけではないんだという思いがこみ上
げ、彼は生まれて初めて心から幸福な気持ちになれた。
それは彼女の方も、やはり同じ気持ちである様だった。

男は自分の身に、奇跡が起きたのだと思った。

二人の仲は、日を重ねるごとに深まっていった。
男は彼女を愛し、彼女も男を愛した。これが男にとって、
生まれて初めてと言っていい恋愛だった。

それからは夢の様に幸福な日々が続き、男はその只中にど
っぷりと浸かった。
そして、この幸福がいつまでも永遠に続くものだと、信じ
て疑わずにいた。
いや、そうであって欲しいと願うあまり、疑う事を恐れて
いたのだ。






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