第十章 青い月X

(1)


過去の回想をひとしきりし終えた後、男は再び恋人との、
最も幸福だった季節の記憶へと心の足を向け、その中へ埋
もれていった。

その淡い思い出に、彼は我を忘れた。

もはや夢と現実の区別もつかなくなり、過去の記憶に妄想
が重なり合い、渾然一体となって、目くるめく幻想の世界
へと彼をいざなった。
そして、朦朧とする意識の中で、時折夢から覚め我に返り、
穴の底に横たわっている現実へと引き戻されたが、不思議
な事に落胆はまるで感じなかった。

(ああ、俺は夢を見ていたのか‥‥)

男は冷静に考えた。
(今、俺が見ていたあの思い出は、かつて本当にあった事
だろうか? それとも俺の頭が勝手に創り上げた幻想だろ
うか?)

彼にはその区別がつかなかった。
だがそれでも、彼の心の中には依然として、夢の中にいた
時のあの、幸福な温もりが消えずにあった。

(愛は幻想だと悟った筈なのに‥‥何故この思い出はこん
なにも、俺の心を暖めるんだ?)

怒りや悲しみや、恐怖や諦めとは違う、全く新しい感覚が、
自分の中に芽生え始めているのを感じながら、彼は必死に
その疑問の答えを探した。
今の彼にはその謎を解く事が、ただ一つの重大事の様に思
えてならなかった。
答えを探しながら、彼はふと頭上の青い光を見た。

(あれは青い月じゃない。)

すると彼の中で、何かが膨れ上がって来るのを感じた。

(あれは青い月じゃない。だが、俺には青い月に見える。
ならばあれは‥‥青い月なのだ。)

心の中で呟いた自分の言葉に、彼ははっとした。

(そうか、そうだったのか!)

突然何の前ぶれもなく、全ての答えが目の前に姿を現した、
そんな気がして、彼の全身を電流が駆け抜けた。

(俺は今一瞬、あれを月だと信じた。ほんの一瞬だが、信
じて疑わなかった。ならばその一瞬、あれは本当に月だっ
たんだ!
俺はもう二度と、あの穴の上まで這い上がっては行けない。
俺はここで死ぬ運命だ。ならばそんな俺にとって、あれが
月に見えるならば、あれは月なのだ! 現実にはどうであ
ろうと、俺にとっては間違いなく、あれは月なのだ!
たとえそれが幻想でも、それが真実なのだ!
あれは青い月だ! 月じゃないけど月なんだ!)

彼は興奮して、動かぬ筈の体が身震いするのを感じていた。
そして更に、思索の先へと進んで行った。






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