(3)


チェックアウトの時間になったので、二人は身支度を整え
部屋を出た。表は大変な人通りで賑わっていた。
通りへ出ると、二人はすぐに別れた。別れ際に女は、尾津
に名刺を渡し、にこりと微笑んで、くるりと踵を返して通
りを歩いて行った。
途中で一度立ち止まり、振り返って小さく手を振り、また
向き直って、夜の街の中へ消えていった。

尾津はそれを見送りながら、さっきホテルの部屋で一瞬頭
をよぎった言葉を、再び思い出していた。
(一体俺はいつから、こんな事をしてきたのだろう?)

それはいつの頃からか、気づかぬうちに音もなく忍び寄っ
ていた。
人生の理想、情熱、愛、それに享楽や金銭欲まで、若い頃
にあれだけあった、ありとあらゆる欲望が、まるで抜け落
ちる髪の毛の様に、彼の中からことごとく消えていった。
夢や希望は挫折と幻滅に取って代わり、未来の光は現実の
闇の前に、もろくも敗れ去った。
かつて欲しかったもの、したかった事、行きたかった場所、
会いたかった人、それら全てが少しずつ色あせ、輝きを失
い、空しさだけが残っていった。
何故こんな事になってしまったのか、彼自身にも皆目見当
がつかなかった。

女を抱く‥‥
ほんのわずか、虫の息ほどに彼の中に残っているのは、た
だこのちっぽけな欲望ひとつきりだった。
今の彼にとって、女と交わす情事だけが、ただ一つの生き
ている証し、生きているという手応えだった。
だから彼はいつも、すがる様な気持ちで女を抱いていた。
例えそれが、にせものの希望の光でも、彼にはもう、それ
しか残っていなかったのだ。

ふと尾津は、先程女から渡された名刺を、まだしまわずに
手に持っているのに気づいて、それに目をやった。
源氏名と店の連絡先が印刷されたその裏側に、彼女の本名
らしきものがフルネームで、それにケータイの電話番号が
走り書きしてあった。
ユキというのが、本当の彼女の下の名であった。

(ユキ‥‥)
その名の響きが、彼女にぴったりだと尾津は思った。






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