第九章 にせものX

(1)


死の約束を交わした尾津とユキが、その翌朝、まだ半乾き
の服を着込んでホテルを出た時、昨夜の雨はもう上がって
いた。
二人はその足で駅へ向かった。
ユキが海で死にたいと言うので、何処か適当な海辺の町ま
で電車で行き、そこで死ぬ事にしたのだ。

駅に着いた時はまだ時間も早かったので、乗降客は疎らだ
った。
二人は改札を抜け、階段を降りてホームまで辿り着いた。

「ちょっとした旅行気分ね。」
ユキは、尾津と心中する腹を決めて、すっかり安心したら
しく、心なしか楽しそうに見えた。
「のどが渇いたわね。何か買って来るわ。あなたはビール
?」
「ああ。」

ホームの少し離れた所に売店があるのを見つけ、彼女は小
走りに向かって行った。
尾津は一人ホームの端に立ち、その先に何処までも真っ直
ぐに延びている線路を眺めやった。

(俺はもうすぐ死ぬんだ‥‥)

しばらくすると、遥か遠くの方に、電車の小さな影がぽつ
んと見えて来た。
電車の影は少しずつ、少しずつ、だんだん大きくなってい
く。

ふと尾津は心の中に、何かとても小さな影が生まれたのを
感じた。

電車は見る見る近づいて来て、その形がはっきり判るほど
になって、微かにその走る音も聞こえて来た。

(だが本当に、俺は死ぬのか?)

気がつくと尾津の心の影は、いつの間にか少しずつ膨らん
でいた。

だんだん近づいて来る電車。
だんだん膨らんでいく影。

するとその時突然、彼は全身に、今まで経験した事のない
様な、恐ろしく冷たい何かが走るのを感じた。
電車はもう、目の前まで迫っていた。

彼は逃げ出したかったが、どういう訳か体が固まって、動
く事が出来なかった。
影は、心を覆い尽くさんばかりに巨大になっていく。

(ホントウニ、オレハシヌノカ?)

次の瞬間、彼の恐怖は頂点に達した。
凄まじい轟音と爆風を従えて、電車が彼のすぐ目の前を猛
然と走り抜けて行った。

この時、彼の中で心と影は、ぴったりひとつになった。






前へ          戻る          次へ