(4)


「僕は‥‥そうは思わない。」
自分でも驚くほどに低い声を絞り出して、僕は彼の話を遮った。
「確かに人間には、そうした自分勝手な面もある。それは多分、本
能的なものだろう。他者に構わず、他者を蹴落としてでも、自分の
命や自分の生活を守ろうとする。それは生きものならば、誰しもが
持っている本能だ。だから慈善活動というのも、実はただのきれい
ごとで、その正体は自分のための行為なのだというのも、もしかし
たら君の言う通りなのかもしれない。
僕はきれいごとを言うつもりはない。自分の中にも偽善やエゴイズ
ムがあるって事は認めるよ。
だけど‥‥人間にはその一方で、人間同士、お互い助け合って生き
ようとする本能もある。それがあるからこそ人間という種族は、こ
こまで生き延びて来れたんじゃないのか? ならばこの本能も否定
すべきじゃない。
人間はお互い、助け合うものだ。自分を守ろうとする本能と、助け
合う本能、矛盾している様だけど、どちらも人間にとって、絶対に
なくてはならないものなんだと僕は思う。」

こんな考えが心の中にあったのかと、僕はいささか自分に驚きなが
ら話していた。
ここで僕は一旦言葉を切り、Sがどんな反応をするか、様子をうか
がった。

「本能か‥‥」
やや間を開けてから、Sはぽつりとそれだけ呟いた。
僕は更に先を続けた。
「君はまだ、僕が最初に聞いた事に答えてないよ。君は何も感じな
いのか? 苦しんでる人たちの姿を見ても、少しも憐れみの感情を
持たないのか? そんな筈はない。君も人間なら、必ず助け合う本
能がある筈だ。」

Sは、考え込んでうつむいていた顔をゆっくりと上げて、独り言の
様に話し始めた。
「幸福って何だろう? 不幸って何だろう? 時々、そんな事を考
えるんだ。僕らが普段、何の疑いもなく幸福だとか、不幸だとか思
い込んでいる事が、果たして本当にその通りなのかってね。」

風が吹いて、Sの短い髪をかすかになびかせた。
彼の顔からは、いつの間にか笑みが消えていたが、相変わらず目だ
けは、恐ろしい冷やかさを保っていた。
「何ひとつ財産を持っていなくても、平気な顔をして暮らしている
ホームレスだっている。そんなのを見ていると、僕らは幸福や不幸
の定義を、根本的にはき違えているんじゃないのかって気がするん
だ‥‥。君はさっき本能と言ってたけど、僕にはその本能が、こと
人間に限っては歪んでしまっている様に思えるんだ。幸福を望んで
いるくせに、何が幸福なのかが判らなくなってしまっている‥‥。
世間では今、被災地が一日も早く元の状態に戻る様にと、復興支援
の呼び掛けに躍起になっている。それは一見、当たり前の事に思え
るけれど、元に戻る事が本当に幸福な事なのか? 元の生活はそん
なにいいものだったのか?
僕たちの今の生活を見てみろよ。便利や快適に慣れ切って、その上
にあぐらをかいている。私欲にまみれ、それを恥ずかしいとも思わ
なくなって、この過剰に豊かな生活を、死んでも手放そうとはしな
い。まあ、ソドムとゴモラほど酷いとまでは言わないけど、でもこ
れが本当に正しい姿と言えるのか? 復興と称して、こんな醜態に
戻す事が、本当に幸福な事なのか?」

「それは君が決める事じゃない!」
思わず僕はSの話を遮って叫んだ。






前へ            戻る            次へ