(6)


五月の澄んだ朝の空気。その中を、一台のバスが走ってい
る。時は流れて、ヤマトは高校一年生になった。彼は地元
の高校へ、この路線バスを使って通学していた。朝のこの
時間、バスは学生や通勤の乗客でいっばいだった。
相変わらずヤマトは、人との違いに悩み、人と交わらずに
毎日をやり過ごしていた。満員バスでの通学は、そんな彼
にとって殊さら苦痛であった。
その朝、ヤマトはいつもの様にバスの中で、吊り革に掴ま
って立っていた。
「痛っ!」
彼の右隣に立っていた、スーツ姿のサラリーマン風の中年
男が、不意にそう叫んで、更に右隣にいた、大学生ぐらい
の年格好の若い男を睨み付けた。どうやらバスが大きく揺
れた時に、足を踏まれたらしい。
「おい、謝ったらどうなんだ!」
腹立たし気に中年男は文句を言ったが、若い男はそれを、
一瞥しただけで無視した。
「この野郎、謝れ!」
「うるせえな!」
二人は口論を始め、だんだん激しさを増して掴み合いの喧
嘩になっていった。
ヤマトは困惑した。止めに入るべきか?でもそれで、自分
の方に言いがかりが飛び火してきたら‥‥そう思うと、怖
くて何も言えなかった。怒りの感情がない分、彼は人より
恐怖や悲しみの感情が過敏だった。
誰も口を開かぬ車内で、争う二人の怒号だけが響き渡って
いた。ヤマトはそのすぐ隣で脂汗を流し、生きた心地がし
なかった。早くここから逃げ出したかった。
その時である。
ヤマトの左隣、つまり争う二人とは反対隣から、すっと腕
が伸びてきて、ヤマトの目の前を通り越して、中年男の腕
を掴んだ。
「やめて下さい!他の人の迷惑です!」
腕の主が、よく通る声でそう言って、二人をたしなめた。
中年男と若い男、そしてヤマトの三人が、驚いてその腕の
主を見た。それは、ヤマトと同じ制服を着た男子学生だっ
た。
「そうだ!」
「静かにしろ!」
彼の声に追随して、車内のあちこちからそんな声が上がっ
た。喧嘩をしていた二人はその声に押され、気まずそうに
下を向いて大人しくなった。
車内に静けさが戻ると、男子学生は、ヤマトの目の前から
腕を引っ込め、何事もなかったかの様に前に向き直った。
ヤマトは、顔から火が出るほど恥ずかしかった。本当は二
人のすぐ隣にいた自分が、喧嘩を止めなければならなかっ
たのに‥‥彼はその後、バスに乗っている間中、恥ずかし
さと申し訳ない気持ちとで、横の学生の顔を見ることも出
来なかった。






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