(3)
優子の泣き顔を見ていると、秀子の心の中に、姉の気の弱
さに対する情けなさや腹立たしさと共に、冷たい言葉を掛
けてしまったことへの後悔や申し訳ない気持ちが入り混ざ
るように湧いて来るのだった。
秀子はそれを振り切るように、大股にずんずん歩いた。優
子はめそめそ泣きながらその後を追ったが、二人の距離は
だんだん離れていった。優子が遠ざかるにつれて、秀子の
心の中の腹立たしさや情けなさは次第に小さくなり、逆に
後悔や申し訳ない気持ちは大きくなっていった。
秀子は気紛れに、ふといつも見慣れたこの帰り道を見回し
てみた。遊歩道の両脇に並ぶ山茶花が花を散らして、その
足元に淡い赤紫色の絨毯を敷き詰めていた。
高い空には鳩だろうか、鳥がたった一羽、雲一つない青の
中の小さな点となって、東から西へとゆっくり動いていた。
不意に秀子は立ち止まり、優子を振り返った。
「ねえ、あそこに行こうよ。」
「あそこ?」
「秘密の場所。」
優子は少し考えてから、おもむろにこくりと頷いた。それ
を見て秀子は走り出した。
「待ってえ!」
優子も慌てて後を追い駆けた。
二人は家路を逸れて、車道の上に架かる太鼓橋を渡り長い
階段を一気に駆け上がって、丘の上に建つ古いマンション
の下までやって来た。そこはこの街で一番高い場所だった。
しばしそこで息を整え休んでから、マンションの脇の階段
を昇り始め、四階建ての最上階の手前の踊場まで来るとそ
こで立ち止まった。コンクリートが剥き出しの狭い踊場の
少し高い位置には、ガラス戸のない小さな窓があった。二
人はその下にある鉄柵に手を掛け、爪先立ちに背を伸ばし
て窓から外を覗いた。
街並みの上に、大きな山が浮かんでいる。山は丸みを帯び
た頂に白い雪を被り、街を包み込むように裾野を広げて、
青い空より一層青く輝いていた。二人はその美しい光景を、
言葉もなく一心に見つめた。吐く息が雲のように白かった。
此処が二人の秘密の場所だった。この光景が見られるのは、
この街で此処だけだった。
この場所を知っているのは、優子と秀子だけではない。こ
のマンションの住人ならば、恐らく皆知っているだろう。
だが二人にとってこの場所は、他の誰とも違う特別な意味
があった。
此処に並んで立って山を眺めると、二人の間にある共通の
感覚が生まれた。お互いがどのような気持ちでこの山を見
ているかが理解出来た。自分と寸分違わず、全く同じ気持
ちでこの景色を見ている、その事が手に取るように解るの
だった。だからどんなに激しく喧嘩をしていても、此処に
来ればたちどころに和解出来た。それはこの姉妹にだけか
けられた、ある種の魔法のようなものだと言ってもよいだ
ろう。
その意味において此処はやはり、二人にとっての秘密の場
所であったのだ。
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく微笑み合った。
「帰ろうか?」
「うん。」
仲のよい姉妹に戻った優子と秀子は、秘密の場所を後にし
て、長い階段を下り太鼓橋を渡って家路についた。西の空
にはいつの間にか日が傾いて、街並みの上に朱い帯が垂れ
始めていた。
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