(3)
暮れゆく夕方の空の下を、優子が一人歩いている。いつも
なら秀子と二人揃って下校するのだが、秀子はクラスの集
まりがあって、今日は少し遅くなるというので、先に帰る
ことにしたのだった。
薄紅色の寒山(かんざん)、普賢象(ふげんぞう)、淡い
黄緑色の鬱金(うこん)、‥‥団地の中を走る遊歩道の周
りでは、様々な種類の八重桜たちが、今まさに花盛りを迎
えていた。普段は秀子と喋りながら通るこの道も、一人で
辺りを観察しながら歩いていると、知らない場所に迷い込
んだような不思議な気分になった。
大きく弧を描いて曲がった道の先が、真っ直ぐ何処までも
延びていて、その途中にぽつんと人影が見えた。あの老齢
の清掃員だった。今日一日の仕事を終え、用具を積んだカ
ートを押しながら、こちらに向かって歩いて来るところだ
った。
優子は一瞬歩調を緩めて、その老人に挨拶をしたものかど
うか迷った。二人の距離はだんだん近づいていく。
「こんにちは。」
すれ違いざま、優子は老人に声を掛けた。
「こんにちは。」
意外にも老人が言葉を返して来た。枯葉のようにかすれた
声だったが、その口許は微かにほころんで見えた。優子は
少し驚いて立ち止まり、ぎこちなく頭を下げた。老人はそ
のまま歩き去った。
優子は足取りが軽くなった。嬉しくて駆け出したいぐらい
だった。このことを秀ちゃんに教えてあげよう、声を掛け
てよかった、お父さんの言う通りだ、歩きながらそんなこ
とをとりとめもなく考えていると、胸が温かくなった。
「きゃっ!」
突然、一陣の風が桜の花びらと共に吹き付けて、優子の髪
を乱した。春の魔物の吐息かしら、などと優子は無邪気に
空想した。
と、そのすぐ次の瞬間、
「斎藤。」
「え?」
不意に後ろから声がして、優子は驚いて振り向いた。目の
前に山岡誠が立っていた。
「君、斎藤優子の方だろう?」
「そうだけど‥‥」
誠に名前を呼ばれて、優子はどきどきして答えた。
「ちょっと話があるんだけど。」
誠は緊張した様子で言った。
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