第六章 それぞれの道・優子
(1)
春の優しい風がそよぐ頃、優子が老人介護施設で働き始め
てから一年が過ぎようとしていた。夜勤も多く、体力的に
も負担の大きい仕事で、初めのうちはとても辛かったが、
続けるうちに徐々に慣れて来て、最近は楽しいと思うこと
さえたまにあるぐらいになって来ていた。
ある夜、仕事を終えた優子が家路を歩いていると、行く手
の暗がりから人影がひとつ、こちらへ向かって歩いて来る
のが見えた。街灯に照らし出され、お互いの顔が解る距離
まで近づいた時、二人同時にはっとして立ち止まった。
「斎藤さん!」
「山岡くん?」
人影の主は山岡誠だった。
「驚いたな。久し振りだね。」
「本当ね。」
二人は薄暗い街灯の下に佇み、お互いの顔を懐かしく眺め
た。誠は地味な色の古びた上着に無精髭を生やし、病み上
がりのような青白いやつれた顔をしていて、優子の目には、
中学の頃とはまるで別人のように映って見えた。
「今、何してるの?」
誠が優子に尋ねた。
「介護の仕事をしてるの。」
「介護?それは大変な仕事だね。」
「ううん。山岡くんは?」
「俺は‥‥絵を描いてるんだけど。」
「まあ!じゃあ絵描き?」
「でも全然売れないから、他にいろいろ仕事をしながらだ
けどね。」
「山岡くん、絵が上手かったもんね。」
「秀子ちゃんは元気?」
「うん。秀ちゃんは家を出て、環境研究所で働いてるわ。
とても忙しそうよ。」
「環境研究所?へえ、すごいね‥‥」
誠はそう言って笑った。優子は恥ずかしくて、彼の顔を見
ることが出来ずにうつ向いていた。
「仕事の帰りかい?」
「うん。山岡くんも帰るとこ?」
「ああ‥‥そうだ、これ‥‥」
誠は急に思い出したように、上着のポケットから何かの案
内状のようなものを出して、優子に差し出した。
「もうすぐここで絵の展示をするんで、その準備をしてた
んだ。よかったら見に来てよ。」
「へえ、ありがとう。是非行かせてもらうわ。」
二人とも、このままずっとここにいたかったが、もうそれ
以上言葉が見つからず、何を話したらいいのか解らなかっ
た。
「それじゃあね。」
一時の沈黙の後に、誠がそう言った。
「うん、さようなら。」
別れの挨拶をすると、二人は背を向け歩き出した。街灯の
灯りがゆらゆら揺れて、歩く先の影を延ばしていった。優
子はそれを見ていると、背中に見えない糸がついていて、
互いに引き合っているような気がした。そして何度も後ろ
を振り返りたい衝動に駆られたが、どうしてもそれが出来
なかった。
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